戦前キノ・ガウスの標準 スピード・パンクロ Speed Panchro
「香箋」G1 50mm f2.0
ガウス型によるキノの最も普遍性を宿した傑作
英クックは1920年にオピック Opicという設計を発表しましたが、これは現代に主流となっているガウス型で最初のものです。ガウス型のレンズ自体はその名の由来となったガウス Gaussの他、ツァイス Zeissのプラナー Planarもありましたが、オピックは対称形を崩した最初のものとなりました。当初人気は低迷していましたが、スピード・パンクロ Speed Panchroに至ると大きな成功を収め、1930~50年のクラシック映画のほとんどに使用されたと言われています。
スピード・パンクロの特徴は、キノ(映画)に求められる全ての収差が含められているにも関わらず、それらがどれ1つとして出過ぎていないことです。全ては確かに認められるのですが、潜在的に表れます。対象は浮き上がり、動きを感じさせ、控えた柔らかさ、むっちり感、甘い繊細さ、耽美、儚さなど求めるものが全てが自然に表現されています。「優れたレンズが欲しいが味も欲しい」というかなり矛盾した要求があった場合の英国人、世界のスポーツのルールのほとんどを規定し、衣服の標準を整理し、世界の秩序を設計した、ルールを作るということにかけては世界で最も才能がある英国人がレンズをも規定したらどうなるか、スピード・パンクロをまず体験しないとその他のレンズがよくわからないというぐらい基準となるものです。
キノ(映画)は長時間動く映像を見せますので、視聴者を疲れさせない、ストレスを与えないことが重要になります。無収差のレンズが無味無臭、目に刺激さえあったからです。スチール撮影でも同じで、このことがレンズの黎明期から認識されていたということは、ペッツバールレンズの存在が示しています。ペッツバールは肖像、風景の2種を作り、どちらも商業的に成功しましたが、だいぶん早い時期に飽きられました。本当の意味で良い物ではなかったからでした。英クックにおいては自社のオピックも否定され、だったらどうしたら良いのか、ということで、ハリウッドに人を派遣しクリエイター達の意見を聞くことにしました。
ペッツバールの原則は方向性としては間違っていませんでしたが、そこからさらに芸術の領域に高めるのは容易ではありませんでした。光学技術者と撮影技術者の感覚にかなり乖離がありました。光学技術者にとって大事にしたいのはスペックや工学的技術力でこれらも重要ですが、ハリウッドの人たちにとっては彼ら自身の作品に作用する影響が全てです。ハリウッドの撮影家たちには共通する明確な考えがありました。なぜ彼らは共通認識を持ち得たのでしょうか。それまでの時代の映画用レンズは主に特注で、彼らの望むものを製造することができたからです。同業者との情報交換などで必要とされる要素が洗練に向かっていました。ちょうどその頃にクック社の調査となり、多くの意見を集約することで設計されたのがスピード・パンクロでした。ですが、光学の技術的側面から目を向けると問題点が幾つもあります。そのため改良が続けられ、他社からも映画用レンズが開発され、もっとより良いものがたくさんあります。それなのに初代スピード・パンクロに還る人がいます。これを超えるものはなし、という感性があります。不思議なことに最初に作ったものが一番良かったという例では、アンジェニューも同様です。「飽きない」不朽性を追求した玉の代表的なものです。本当のスタンダードを追求するとこのような玉になるでしょう。ペッツバールから始まって行き着いた結論の1つです。
スピード・パンクロ(英特許 GB377537)の画角は推奨では35度、焦点距離は75mmぐらいで緑の光線。50mmは青の光線です。口径は指定通りf2です。販売されていた50mm(2inch)のスピード・パンクロは暗角がかなり出ます。ガラスの直径を絞って物理的に切っています。映画用の35mmはフィルムを縦に使いますのでイメージサークルが30mmぐらいあれば良いからです。使わない部分をカットすることで光の回折を防いだものと思われます。そこで復刻では、全てのガラスを極力大きくすることでしっかり光を取り込めるようにしました。
オピックはおそらくスピード・パンクロ シリーズ0とされているもので、1926年に発売されたようです。これは描写が騒がしく、評価が得られなかったとすればそれもやむなしと思えます。ハリウッドを経て1931年のものはシリーズIとはされていませんが、事実上のシリーズIです。コーティングの導入と35mmスタンダードフィルムをカバーして設計変更(イメージサークル27mmから31mmへ)した1945年発売のものはシリーズIIとされ、さらに1954年に広角の18,25mmを明るくしたシリーズIIIが発売されています。
焦点距離 |
Panchro 31年 |
Panchro 45年以降 |
18mm |
|
f1.7 (7群9枚) |
25mm |
f2.0 (4群6枚) |
f1.8 (7群9枚) |
28mm |
f2.0 (4群6枚) |
|
32mm |
f2.0 (4群6枚) |
f2.0 (5群7枚) |
35mm |
f2.0 (4群6枚) |
|
40mm |
f2.0 (4群6枚) |
f2.0 (5群7枚) |
50mm |
f2.0 (4群6枚) |
f2.0 (5群7枚) |
75mm |
f2.0 (4群6枚) |
f2.0 (4群6枚) |
シリーズ Iはリーの設計、シリーズ IIは後継者のウォーミシャムが改良しています。ライツもべレクからマンドラーへ継承された時に、ライカレンズの特徴は残しつつも新しい時代へ変化しました。英クックも同じことが言えそうです。基本的な収差配置は変わらないのですが、ベースから上乗せするものに改良を加えています。リーはトリプレットの設計でも有名ですが、ガラスを分厚くした方が良いと考えたようで(例えば英特許
GB474815)、この点、
ベルリンのゲルツと同じ方向だったようです。対してウォーミシャムは、ペッツバールをずいぶん研究しています(例えば英特許
GB258092)。この個性の違いがスピード・パンクロにも感じられます。
シリーズIは単に色収差が多いわけではなく、波長の低い青がプラスになっています。赤と青の位置が逆になっています。波長の違う色彩が交差して捻れています。
色収差を過剰に補正(反転)しています。
Speed Panchro初代と二代、そして小店で過去に製造した2種の玉の紫外線をピンクで示しています。
二代と花影S1(右のKino Thamber)は色収差に関してはほぼ無収差ですが、微妙に反転させています。対して、Speed Panchro初代は、紫外線を大幅に突き放しています。
シリーズIは複数のモデルがあった可能性があります。リーが31年にシリーズIを設計、35年にウォーミシャムに変わってから改良を続けています。
20年
オピックを採用してのシリーズ0
31年 リーによるシリーズI
35年
シリーズIIに似た改良が特許申請される
37年
シリーズIに戻されるが色収差の反転はしていない
38年
スーパー・シックス
38年
ランタンガラスに変更
40年
完全な色消しで反転もさせるが重ねて消している
43年
シリーズII。カラー対応する
そのため、リーの設計したオリジナルは31~35年までのものだった可能性があります。35~37年、ウォーミシャムは色消し過剰補正をやめ、球面収差をアンダーにすべきと考えました。そして画角を広げています。明確にスピード・パンクロの改良だと明記されています。この改良は、特許に苦情があったことを示唆する文言があります。そこで初期型の考え方に戻すのですが、まだモノクロ時代ですので色収差過剰補正では描写が硬くなることから、球面収差をアンダーとする配置は維持しています。翌38年に
ダゴールを研究し、後に
スーパー・シックスと言われる設計に行き着きます。そして40年には色収差の完全補正に踏み込みます。しかし、42年のシリーズIIではそれをやめています。シリーズIIは、
ライカに供給されたシュナイダー クセノンから派生しています。ガラスが1枚多いのはそのためです。クセノンはスピード・パンクロより先に開発されています。その後、
38年、
40年、
43年、
同年の改良、
さらに改良したものの口径を絞ってスピード・パンクロIIに至っています。ライカ・クセノンは49年まで供給されているので、後代のものはスピード・パンクロ・シリーズIIのf1.5であった可能性が高いことになります。
ノウハウを蓄積してカラーフィルムに対応したことで、後代にまで影響を与えたのがシリーズIIでした。収差配置もライカやアンジェニューが採用し、現代においても基本配置となっています。シリーズIIは傑作、追従を寄せ付けない説得力がありますのでこれも復刻の価値があります。落ち着きがあります。ですがさらにその原点のスーパー・シックスの方が魅力あります。それでもf2とf1.9では違うし、収差もスーパー・シックスの方が多めです。やはり違う、悩ましい相違です。シリーズIの一部は画角を絞ったスーパー・シックスf2であった可能性が高いと思われます。
オリジナル・シリーズIは、光に生命を与えます。1931年に設計しておいて尚、収差配置は19世紀的です。ガラスのボテッとした厚みから来るリッチな描写はエミール・フォン・フーフ時代の
ダゴールを想わせます。それでウォーミシャムもダゴールに回帰した可能性があります。シリーズIで田舎の撮影はあまり映えません(異なる意見もありそうですが。作品次第かと)。都会の玉でしょう。都市の生命力が撮影できます。そういう意味では中庸なシリーズIIの方が無難です。逆にいうと、シリーズIオリジナルは代わりがない、唯一無二、昔のハリウッド以外では一般的には最大公約数的ではない、と言えます。感動的なのはスピード・パンクロ・オリジナルf2とスーパー・シックスf1.9でしょう。
31年版はコーティングが無かった時代のものなので、それに合わせ再製造でも無しとします。使われているガラスの耐候性が高いということもあり、無しで良しとの判断、フィルムに対しては単層ぐらいなら良いとは思うのです。しかし現代のデジカメの描写が硬いことも考えるとできれば入れたくはないとの判断です。これも写真と映像の両方での使用が想定されますので
院落 P1と同様に、絞りはクリックなし、ヘリコイドの脂の緩め、回転もちょっと大きい、映画用に比べれば少ない、微妙な間で製造します。
フィルター径40.5mm
前作のP1より外装のアルミを厚めにしてありますので、本来130gぐらいで作れるところで約180gになっています。重厚感をより出していきたいということだったのですが、比べれば少し違うかな?程度しか効果がなかったような気がします。フードも厚くなっています。
フルサイズ35mmフォーマットで大丈夫、ではラージフォーマットではどうでしょうか?
緑の中央線が通過できていません。収差図もエラーで出図しません。
2023年秋、クック社がミラーレス用にクラシックなスピード・パンクロを復刻しました。
英クックのガウス型はかなりの数の特許出願があります。最先端の研究が行われていたことがわかります。以下全て焦点距離は50mmに統一します。
1920年設計のオピックが最初です(英特許
GB157040)。口径はf2、画角は50度と指定されています。絞りの入るスペースが狭いのでf2では製造困難と思われます。かなりのボケ玉です。
1927年に画角はそのままに口径をf1.5と大幅に明るくした改良型を発表しました(英特許
GB298769)。3枚張り合わせになっていますが、いずれも1箇所は平面です。複雑化はしたものの、倍近くの明るさを得るためにはやむを得なかったのではないかと思います。球面収差が多くかなり柔らかい描写と思われます。
翌1928年の設計で、f1.4、画角は40度と狭くなっています (英特許
GB373950)。しかし明らかにf1.4はありませんし、絞りも入れるスペースがありません。最後面の2枚はそれぞれ片面が平面で曲面側は向かい合って互いに同じガラスを使っています。曲面の位置を前後入れ替えただけのようにも思え、そのためにガラスを1枚増やしています。使用ガラスの屈折率と分散は近い値のもので揃えているので古典的で無理がない描写が期待できます。尚、これはシュナイダー・クセノン、後のライカ・ズマリットと同一と言われています。かなりソフトフォーカスですが口径をf1.5にするのであれば少し落ち着きます。
スピード・パンクロ (英特許
GB377537)は1931年に出願されています。
前後の設計を見ますと、色収差をなるべく消しその結果、描写が硬くなりますがその代償として球面収差をオーバーとして柔らかくする方法に拘っています。スピード・パンクロはクックの基本的な収差配置を一旦捨てて設計されたものであることがわかります。
同じ31年の改良でf2、画角は40度が限界? 球面収差が大きくオーバーになったものです (英特許
GB397261)。限界までオーバーにしてあるとの記述が何度も繰り返されているので、ここが特徴ということのようです。映画用のソフトフォーカスでしょう。
プロジェクターに使用する場合、ガラスを貼り合わせると熱で剥がれる問題が発覚したので僅かに隙間を空け洗浄も可能にしたとあります。スピード・パンクロ(英特許
GB377537)の改良で張り合わせを解消したものともあります (英特許
GB427008)。ということはスピード・パンクロで撮影した映像を投影するためのもののようです。f2です。口径はもっと大きくできそうにも見えますが、空気間隔のところで曲率が互いに違うのでガラスが当たったところが限界です。画角は28度でした。
同34年にf1.1と大口径、画角は40度です (英特許
GB435149)。球面収差が極端にアンダーですが、これを非球面レンズで補正すれば良しという趣旨のようです。
スピード・パンクロの設計者 ホレス・ウィリアム・リーの設計事務所 カペラ・リミテッド名義で特許が出願されていることはこれまでと変わりませんが、リーとカペラ併記となっていたものからリーの名前が外れました。そしてディレクターはアーサー・ウォーミシャムに変更されての最初のガウス型の特許は35年のもので、その内容は驚きの「スピード・パンクロの改良」でした (英特許
GB461304)。口径はf2のままです。ガラスは3種どれも同じ、微調整のみで記載されています。1つ目はシリーズIIに似ています。後の2つは色収差を減らしています。ウォーミシャムは色収差が多すぎると考えたようです。そしてさらに最終結論は1つ目のものとし、球面収差をアンダーにしています。この収差配置は後にシリーズIIになったので、もう既に考えは決まっていたようです。しかしシリーズIIは10年も先です。もしかするとシリーズIは途中からこれに変わった可能性もあります。なぜなら、これ以降、何度も改良されているからです。
36年のf2です (英特許
GB474784)。画面全体が均等にソフトになるような、そんな設計です。
ウォーミシャムによると、スピード・パンクロは更なる改良の必要性が明らかになっているらしい、37年に2つの設計が申請されています (英特許
GB507184)。基本的にはシリーズIオリジナルに戻して色収差を減らしただけと思われます。しかし色収差は
反転させていません。そもそも反転は打ち消しの意図である筈で、それを敢えて過剰補正させることで色を逆に強く出そうということですから、モノクロですが色を強くは表現できるので、それはやめようということのようです。
大口径f1.1にて非球面を使用して製造可能ということを示すために三枚玉から説明しています (英特許
GB514441)。最初はf8、もう一つはf7.3です。60度で確認するも実質50度ぐらいしか届いていないと思われます。
1つ貼り合わせを剥がしての後方ガウス型で、f4です。
ダゴール型で、f4.2です。
f3ですが、画角は狭くなりこれは40度で出しています。
f1.8の
スーパー・シックスです。画角は50度です。スーパー・シックスはダルメイヤーですが、設計しているところは結局同じだったのかもしれません。
f2のスーパー・シックスです。画角を広げ58度です。
f1.8のスーパー・シックスで、画角は58度です。
f1.1です。画角は36度が限界と思われます。
38年末にf1.4です (英特許
GB522651)。
クセノンはかなり無理のある設計でしたが、こちらは改良されています。途中からこれに変更された可能性はあります。
これも38年末、ほぼ同じ時期です (英特許
GB523061)。ランタンガラスを使っての改良です。4つあります。
f2。スピード・パンクロの改良に見えますが、明記されていません。
f1.5ですが、設計ミスと思われます。理論的にはこうしたいという方向性を示したものと思われます。
f1.4。製造面で無理がありますので理論上のものですが、特性は改良クセノンより自然です。
f2でこれもスピード・パンクロの改良に見えるものですが、とにかく球面収差をアンダーにしたいようです。
40年のf1.4です (英特許
GB544658)。クセノンの更なる改良と思われます。
40年、さらに新しいレアアースを使った新種ガラスで完全な色消しをしています。ガウス型の設計を3つ、さらに新種ガラスでエルノスターなど他に4つ載っています (英特許
GB547666)。ガウス型のみ確認します。最初はf2、画角を広げて同じくf2、最後はf1.4です。波長の長い赤、短い紫が重なったり反転したりしています。
41年、広角のf2で、使用ガラスの屈折率が全て近似値、アッベもほぼ差がない近いガラスのみでここまでできることを示したものです (英特許
GB550623)。
41年末に、広角f2の3つの収差が異なる設計を発表しています (英特許
GB553639)。アッべ数を平均49以下で組んでいます。
42年の申請で、単にクラウンとフリントガラスを組み合わせただけでは残留色収差が残るところを他の要素に影響を与えずに完全補正できることを示しています (英特許
GB560540)。
同42年に広角f2において、クラウンとフリントガラスの貼り合わせでアッベ数に大きく差をつけることで色消ししています (英特許
GB560609)。2つ目の例では長い波長赤と短い紫がほぼ重なっています。
同時に続きナンバーで、広角70度、f2です (英特許
GB560610)。
43年に、f1.5、クセノン新型です (英特許
GB564815)。
同時に別紙で僅かにデータを変えたものを申請しています (英特許
GB564816)。
同年に改めてf1.5で5種類発表しています (英特許
GB566963)。データを僅かに変えて比較しており、ほぼ同じ設計です。図はその1つ目です。
このデータはスピード・パンクロ シリーズIIと考えられます。これらを全てf2に変更、ガラスの直径を絞りますが、キノのイメージサークルではなくスチール用に合わせ、隅まで光量を維持できるようにしました。シリーズ Iより優秀です。記載の5種類、どれも変わらないのですが全て収差図を出しました。違いは書かれているのですが、あまり重要でなさそうなことが中心です。最終的にどれがシリーズ IIとして製造されたのかもわかりません。そこで調べるとこれはコントラストが低いものから高いものの順番に並べられています。この5種を製造して製品化するものを決めたと思われます。シリーズ IIはカラーフィルムへの対応だったのでコントラストは重要、そのための研究の蓄積のためだったとも思われます。シリーズ Iに比べて隅への入射角が狭くなっています。これもコントラスト向上のためであろうと想定されます。
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