光学の黎明期以降、ドイツを代表してきたのはベルリンのゲルツ Goerzで、1926年にツァイス・イコン Zeiss Ikonとして合併消滅した頃(米ゲルツはしばらく存続)、1922年に設立されたアストロ・ベルリン Astro Berlinが系譜を引き継ぎました。そしてクライツナッハに移転する前のシュナイダー Schneiderがベルリンに本社を置いて、そのシュナイダーが現在ライカのほとんどのレンズの製造を行っています。土地の文化は重要です。それは企業文化とはまた違うものです。ベルリンに本社を置いていた光学会社には共通点があります。自分たちで伝統を築き上げてきたツァイスやライカとは違う印象があります。
真にドイツ的なものの発祥は、カール・パウル・ゲルツ Carl Paul Goerzが、当時若干27歳に過ぎなかったデンマーク人青年を迎えた時に始まりました。そのデンマーク人はダゴール Dagorの設計図を携えていました。

言い伝えによると、フーフはダゴールの設計図をまずツァイスに持ち込み、門前払いの後、ゲルツに向かいました。もしゲルツではなくツァイスがダゴールの設計図を手に入れていればどうだったのでしょうか。それは全く違ったものになったであろうと想像されます。ツァイスはダゴールの成功を見てすぐにコピーし、プロターとして販売したのでその結果を見れば明らかです。フーフがツァイスに行って凡庸に埋もれていれば歴史は変わっていました。ツァイスに問題があるわけではありません。単に文化が違うというだけでしょう。
ダゴールはしっかり貼り合わせを重ねた、密な構造になっていますが、コーティングがなかった時代には損失率を下げるために有効な処置でした。しかしコーティングが実用化されるようになってからは、貼り合わせを多用するコスト高な方法は避ける方が好ましい流れになってきました。そこで3枚のところを2枚にして独立させたのがダイアーリト Dyrlit型でした。もうコーティング前からやっているものもあるようで、それぐらいダゴールは製造面でコスト高なレンズだったのだろうと思います。ゲルツはこの新型にセロール Celorと命名しました。

セロールもダゴールと同じような個性のレンズでした。ダゴールの割とはっきりわかる特徴は後ボケのチリチリで、これにしっとりした写りが持ち味、セロールはそこを少し薄味にしたような感じがありました。ダゴールは1892年、セロールは1896年、その反動からか1904年にパンター Pantarという逆戻り的な4枚貼り合わせの対称形、そしてついに1913年にドグマー Dogmarに至ります。しかし構成はセロールとほとんど違いはありません。このことについて仏トラオレ Turriereの設計書に説明が書いてあり、コマ収差を大幅に改善している点に違いがあるとあります。これによってダゴール系列からチリチリが駆逐されました。現代の我々はダゴールの味を評価しますが、しかしゲルツは消滅するまで、まずはとことん優秀性を追求していた会社だったという若干の矛盾があります。
ゲルツの考え方では貼り合わせを解消したダゴールとしてドグマーの開発に至っています。ダゴールより明るいとはいえ、それでもf4.5で映画に使うには暗過ぎることから何らかの新作か改良が求められました。そこでドグマーを改良したということは、ゲルツはこのレンズになお可能性を見いだしていたということになります。そしてついにf2に到達したのは1921年でした (独特許 DE396359、米特許 US1474743)。焦点距離は60mmで出図しています。
映画用のレンズは、フランスにステラー Stellor f3.5(1913年)がありました。ドイツはドグマー f4.5でした。レンズ構成がほぼ同じなので、映画用にはこれが良いというのが当時の結論だったようです。ドグマーは21年にf2となって続いて24年に、やはり同じレンズ構成でアストロ・ベルリンが少し暗くなるパン・タッカー f2.3を設計しています。f2はレンズ構成に対して無理があるという考えだったと思われます。
ドグマー f4.5はアメリカ市場にはゲルツ・アメリカを通して「シネ・ドグマー」を販売していました。ハリウッド向けだったのでしょう。
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