英国には有名な古いレンズメーカーが3社あります。最も古いのはロス Rossで、そこから独立したダルメイヤー Dallmeyer、そしてクック Cookeです。これらはいずれも油彩画のような写りがすると言われています。とはいえ、設計によってそれぞれ味わいが異なりますので、ネット上の作例を確認しつつ価格との兼ね合いを見ていき、最終的に1つの中判カメラを入手しました。Ensign Selfix 820というカメラでした。これにはロス Ross社のエクスプレス Xpresというレンズがついています。105mm f3.8というスペックです。
ロスはロンドンで最も古参の光学会社でしたので、独ツァイス Zeissの英国代理店も務めていました。そのため、ツァイスが開発したレンズはライセンス提供され自社で製造して英国国内で販売していました。1903年に発表されたテッサー Tessar (独特許 DE142294)もそうで、ツァイスのライセンスを明記した上でロスが製造販売していました。しかし1913年にロスの2人の設計師 ジョン・スチュアート John Stuartとジョン・ウィリアム・ハッセルカス John William Hasselkusがテッサーの特許を回避するために改良したエクスプレス (英特許 GB29637)を設計しました。
特許は20年有効と決まっていましたので、この時点ではまだ先10年はツァイスのライセンスが有効でした。そのためこの特許を回避するために、後群の貼り合わせを2枚から3枚に増やすことが多くの光学会社で試みられていました。ロスもこの方法を使ってエクスプレスを開発したようです。そしてツァイスの特許が切れてから各社は貼り合わせを2枚に変更しました。エクスプレスも2枚になりました。
特許データはf4.5とかなり暗いもので、オリジナルのテッサー(f6.3)に比べれば2倍になっているとは言え、現代の基準では相当低いスペックです。テッサーはそのさらに倍のf3.5まで明るくされて、しばらくはこれぐらいが常識でした。新種ガラスを投入するようになってf2.8まで上げられました。エクスプレスのレンズ構成図と収差を確認します。
画角は60度ありますが、そのままで焦点距離は50mmで出しました。特徴は3枚重ねの部分で屈折率が順に上がってくるというところでダゴール的なガラスの使い方です。特許を回避する目的の場合は3枚の内、2枚にほぼ同じ屈折率のガラスを使う例が多くあります。また3枚重ねの積極利用としては同じガラスで中央の異種ガラスを挟むというものがありますが (米特許 US1697670)それとも違います。
球面収差はマイナスです。英国物では多い傾向のように思います。エクスプレスはテッサーの特許失効以降、仕様が2枚に戻されてからしばらくして中判カメラ用に供給されました。フィルムサイズに応じて3種、供給されていました。特許と比較して明るさが向上しています。当時の中判カメラには前玉を回転させることで距離を合わせる機械的に簡単な方法が主に使われていて、エクスプレスもそういう構造になっていました。この方法は収差移動があるので、全群移動に比べて性能が劣るとされています。事実、理論上はそうなのですが、これを逆手にとったようなロスの方法は興味深く、距離によって移動する収差が様々な表情の移り変わりを見せるようで非常に魅力があります。エクスプレスは収差の少ないレンズですが、その中に癖となる特徴は含んでいて、それがより近いものを撮った時に表面化して味わい深い作画になるようです。エクスプレス以外の前玉回転のレンズも無限遠では開放でも非常にシャープに撮れるように作っておいて、近いものを撮った時にあまり収差の影響に悩まされないように配慮しているのですが、それでもあまり良くないものが多いのは確かです。しかしエクスプレスは土台が良いのか、収差が出てきた時の方が良いし、無限遠であまり収差を出したくない場合では優秀なので、絞り調整を考えることなく全部開放で撮影できるというのは考えようによっては便利だと思うのです。開放で何でも撮って良しなので、考えないといけないことが減ります。距離による収差の変化は以下です。
元々105mm f3.8が付いていたカメラは固定蛇腹式(カメラの中に畳んであるレンズを撮影時に繰り出して固定するもので、蛇腹はレンズをコンパクトに収めるだけのもの、距離を合わせるためのものではないのです)で前後に動きませんから、レンズの方で前群のエレメントのみを回転で前後させ、後群との間隔で距離を合わせています。この場合は前群の回転は無限で固定し、構成レンズ全体を動かす一般的な方法に変えることもできますが、このレンズの場合は前玉繰り出しを維持し、ヘリコイドも使用せずビゾフレックス Visoflexに装着致しました。
このレンズの第一の特徴は、独特の滲みです。特に赤い提灯のあたりに明確に出ていますが、線香花火の消え入る直前の火の玉が萎んでゆく様子に似ています。
色彩のバランスも独特です。色素に鉄分を混ぜたような雰囲気です。色彩が重厚感を感じさせる一方でボケは柔らかいというところに独自の個性があります。
奥に消え入るボケに儚さが感じられます。このレンズは意外と中国に合いそうです。
これを見た感じでは、少々青みが強い傾向があるようです。赤が微妙に紫寄りの発色になるようです。
手前のボケも奥へのボケと同様、消え入るような詩的な感じがあります。
ボケは非常に柔らかく滑らかですが、ピントが若干ズレた所の描写には僅かに粗い乱れが見られます。これが絵画的な雰囲気を醸し出す要因のようです。
人の肌の描写を見た感じでは、これでポートレートを撮ると厳粛なイメージになりそうです。女性向けかどうかはわかりません。好みが別れそうです。とはいえ、このボケは人物撮影においても有用な筈です。
小雨が降ってきましたので実際に湿っているのですが、レンズの描写自体も太い筆で描いたような感じがありますので、柳が心なしか重く見えます。
遠景を開放で撮っても申し分ありません。むしろ開放の方が持ち味が出そうです。
蓮ですが、よく見るとピントは微妙に花より手前に来ているようです。そのためか花は僅かなボケに包まれていますが、これは確かに絵画的と言える描写です。花より背景の方が絵画的に見えなくもありません。
このロス・エクスプレスはライカ・ビゾフレックスIIIに自作のチューブを付けて撮影していますが、R-D1での撮影ですから、ビゾのファインダーが直立型でないと取り付けられません。このファインダーはレアなので入手できておらずオークションにもなかったのでどうしようかと思いましたが、無しでも十分撮影できました。90°のファインダーはあるので、通常と逆に取り付けて見え具合を確認したところ、あまり良好と思えず、ビゾ上面のすりガラス部分を露出したままで撮影してもほとんど影響ありませんでした。ローライやハッセルブラッドのような撮り方になります。同じ105mmのレンズを距離計連動で撮るのとフィーリングはさほど変わりません。しかも距離調整でレンズの前面を掴みますので、撮影していることが周りに気付かれません。アングルは低くなりますから、子供の視点で撮影している雰囲気になります。
イメージとしてはこんな感じになります。