前稿までドレスデン派の風格について、メイヤー Meyerとその他の小メーカーを見てきましたが、その源流はツァイス・イコン Zeiss Ikon、そしてその母体となった各メーカーにあるということについてはすでに触れました。20年代のツァイス・イコン時代のレンズはそれより古いゲルツ Goerz、エルネマン Ernemannと共通する個性があって、それについては次稿で見ますが、本稿ではツァイスが新しい表現を模索していき、大戦によって分裂しながらも影響力を維持していた時期のレンズで東ドイツ側(ドレスデン)で作られたレンズを1つ見ておきたいと思います。
ツァイス・イコンはドレスデンに本社を置いていましたが、ドレスデン以外の地域に本拠があったメーカーとも合併しましたので、汎ドイツ連合的なメーカーでした。もっともこの20年代当時はまだ地域による個性の違いというのが見いだし難かったので、この合併によって直ちに目に見える変化があったわけではありませんでした。しかし敢えてこの時期の重要な変化を指摘するなら、恐らくそれはゲルツがガラス生産を中止したことだろうと思います。それまではイエナにあったツァイス傘下のガラス会社・ショット社との併存でしたが、ゲルツの生産中止でドイツのガラスはショットにほぼ一本化されました。このことは各地域のレンズ工場の関係を緊密にし、洗練されていく流れになっていきそうな予感がありましたが、実際にはドイツが統一されることはなく、様々な個性のレンズが乱立する百花繚乱の時代を迎えました。ドレスデンを中心とした強力な先導体制は、ベルリン、ミュンヘンが強力な影響力を失わなかったことであいまいになり、大戦後にはツァイスが東西に分裂したことでさらに勢力図は複雑化しました。(このことは我々レンズグルメにとっては良いことです)
Sonnar 50mm f1.5
ツァイスはすでに戦前にドイツ光学界の盟主として新しい表現の追求を試みており、そのためのヒントを与えたのはやはりベルリンとミュンヘンの光学会社だったようです。ミュンヘンは特に技術面で大きな影響があり、ベルリンは色彩面でリードしていました。当時ベルリンはナチス帝国の本拠地として文化・経済の両面で大きな力を有していました。とりわけ、アストロ・ベルリン Astro Berlinのパステル調の絵作りは、かつてベルリンに本社を置いていたシュナイダー Schneiderにも影響を与え、それがミュンヘンにも還元されていきましたが、ツァイスにも同様の影響を与えました。しかしこれらの光学会社は決してアストロ的な個性を追求せず、ただ参考にして発展させましたから、彼らが作りあげた物はそれぞれ唯一の風格を持っていました。そして大戦後にツァイスは分裂しました。西ドイツ側のオーバーコッヘンに本社を置いていたツァイス・オプトン Zeiss Optonはやがてカール・ツァイス Carl Zeissと社名を変え、赤を基調にした華麗な表現へと高められた現代ツァイスの風格を築き上げましたが、東ドイツのドレスデンに本社を置いていたツァイス・イエナ Zeiss Jenaには時間が止まったような戦前ツァイスの影響が残存していたという別の魅力がありました。
そこで古典ドイツ派の表現から脱皮を目指してゆく過程にあったと考えられるレンズの例としてツァイス・イエナ Zeiss Jena ゾナー Sonnar 50mm f1.5を確認してみたいと思います。f1.5は当時としては驚異的な大口径なので、クセは出やすいと思います。本レンズはズミクロンはライカレンズの分水嶺2ですでに少し見ていますが、明るい昼間に強引にf1.5で通した作画はおそらく露出過多の影響もあり屋外ではおおむね硬い表現に終始していました。そこで本稿では夕方から撮影を始めていきたいと思います。撮影場所は家の近所あたりから最後は北京師範大学構内で終了するコースで行ってみたいと思います。
師範大学ホテルの斜向かいあたりの大通りの中央分離帯に灌木が点々と植えてあって、この木は高さ2.5mぐらいというところですが、何やら花をつけていますので近寄ってみます。何の花かわかりませんので、一応「桜」としておきます。尚、中央分離帯への進入は個人の自由ながら安全方面の問題から推奨できません。しかしこの付近は往来が少ないということで近所の人々も積極的に撮影しています。開放で撮りたいということで捉え方を迷いましたが、とりあえずは手前の花に合わせておきます。ボケ味を見るとやはり古典的なドイツの味がします。
桜の幹にも注意を向けてみますと枝の伸び方がいかにも中国の木という感じがします。焦点の合った部分は強烈なリアリティ感があります。グッと突き出したような感じです。
付近の小区(団地)の中にあった一本ですが、これも中国風の逸品です。奥のボケはあまり乱れず、結構鮮明さを保っています。手前は柔らかくなります。f1.5ということや時代背景を考えるとかなり精度の高いものだったと言えると思います。
これは同じ物が右にもう1つあります。2つで車の進入を阻止するものです。既製品ではないようで、一般的な部品を組み合わせて作った古いものです。夜間は危ないと思いますが、そういう配慮をするのは日本や有名観光地ぐらいで一般に諸外国では「個人の責任」ということで安全面は検討すらされません。マンホールでも壊れて蓋が落ちたまま平気で1ヶ月ぐらい放置してあったりは普通です。怪我人ですか。それはもちろん出ますね。北京はまだましですが、田舎に行くと注意する必要があります。嵌まった人が悪いと聞いています。死者も出ます。f1.5というとライカではズマリット Summaritがあります。かなりのボケ玉ですから、ゾナーのようにきちんと写りません。ゾナーは優秀ですが、ズマリットも他を以て換え難い魅力があるので、どちらが優れているかというと難しいところです。ゾナーはモノクロで撮影した時に持ち味を発揮します。カラーでもそれなりに楽しめますが。
このドアの向こうとこちらでは土地の高低がかなりあるようです。手前にブロックをかなり積み上げています。ドアも壁の高さと合っていません。不思議な雰囲気ですが存在感はあります。ドアの表面の味わいはゾナーだったから撮れたという感じがします。少ししっとりしていて僅かにクールな感じがあると思います。この特徴がモノクロで撮った時に良い感じがするのです。
北京師範大学は結構大きな大学ですので、敷地には大きな建物がたくさん建っています。その中でも図書館は大きい方です。まだそんなに暗くなってはいませんが、あたりの電灯が点き始めています。開放でありながらピントは気持ちが良い程きちっと決まります。
これを見ると被写界深度は以外と広いと感じられます。自転車は簡単に持っていかれますのでベンチに固定してあります。有料で係員がいる駐輪場もかなりたくさんあります。
大学が今のように大きくなったのは戦後だと思いますので、建物は大学の歴史程ありません。この師範大学も元は別の場所にありました。建物のデザインは50~60年代ぐらいのもののように見えます。しかしかなりしっかり作ってある物が多く、まだまだ使えます。新品の現行品に交換した方が壊れやすいと思います。そういう観点から大学の建物を鑑賞するのは興味深いものがあります。もちろんもっと古いもの、戦前の建物の方がはるかに立派です。小さいので小中学などに転用されています。
「教八楼」とあります。八号棟教室という意味です。光の量が少ない環境ですので暗さが感じられます。それでも色彩がしっかり出ていますので引き締まった印象があります。この構図はモノクロで撮った方が印象深かったと思います。
大学構内の南西端に食堂やスーパー、銭湯などが密集した生活エリアがあります。この煙突はおそらく銭湯ですが、オブジェのようにそびえ立っていて目立っています。徐々に暗くなってきていますので、シルエットのように写りました。このディテールに注目しますとこの個性はドイツ古典派にはなかったものです。むしろベルリンのアストロで撮影したものだと言われたら色彩感が少し違和感があるもののそういう感じがしないでもないと思える程近いものがあります。
鸡蛋煎饼という軽食です。並んでいるのは学生だけではありません。近所に住んでいる人まで入ってきて買っています。特に安いというわけではないと思うので、おいしいのかもしれません。やはり人工光の雰囲気がアストロ的で後代のツァイスには感じられないものだと思います。ただちょっとクールなような気はします。
甘い飲み物を売る店だと思います。猫の枠は、なかなか興味深い演出だと思います。日本であれば「犬の方が良い。猫は嫌い」などと別にどっちでもいいのでは?と思うようなことを主張する人が結構いますので難しいかもしれませんが、中国では国が巨大なだけに気持ちも大きいので、そういう細かい事を一々言う人はいませんから問題ありません。多様な民族が混淆している中で、犬猫ごときで論じるという風潮自体がありません。何事においても細やかさがありません。気質が全く違います。光が強いと滲みが出ることもありますが、もう少し絞れば安定します。これはこれでとりあえずは良いと思います。
中国でソフトクリームを売る店は珍しいと思います。ソフトクリーム自体が珍しいわけではなく、マクドナルドが売るものと決まっている感があります。安いしおいしいので他が対抗できないからと思われます。マクドナルドはほぼどこにでもあるのでソフトクリームも簡単に買えますがマクドナルド以外のソフトクリームの購入は困難です。そういう意味でこの店は相当レアです。中国でこの店は皆さんがお持ちのレンズと同じぐらいレアなのです。それでこうして高いところで輝いているのです。
後ろはレストランの電光広告だと思います。その前に演劇の上演を知らせる垂れ幕があって風で押し付けられて広告にへばりついています。ただそれだけですが「美しい」という一点を評価いたしました。
中国は広いので外国がたくさん集まったような国です。日本も沖縄に行くと外国のような雰囲気があるし、事実当地は琉球王国という違う国でしたが、倭国とは規模が違います。中国はそれなりの大きさの国がたくさんくっついている感じがあって、その多くは漢族の居住地域です。さらにそれ以外に少数民族も多数あります。観光名所で有名な桂林は少数民族の地域です。北京のような田舎者ばかりが集まった都会では、あらゆる地域の食べ物があります。南方から来ている学生にはこういう食堂は貴重なものかもしれません。米粉はうどんみたいなものです。
軽食屋の窓口?はこのように狭いのが普通です。理由はわかりません。防犯は関係ないと思います。街中にカメラがあるので必ず捕まります。治安は日本より良いです。銀行ほどではありませんが、それとコンセプトが同じと思える狭さです。そういう雰囲気が良いのかもしれません。光量が乏しいのですが、f1.5でISO800まで上げれば楽々撮影できます。R-D1ではISO1600まで可能ですが、実用的には使えないと思います。画像が極端に悪くなります。
サラダを売っていますが、この時間にこれだけ残っているのは良くないでしょうね。1ヶ月後にはこのブースは無くなっていると思います。少年が興味を示して手を伸ばしていますが、ママは買ってくれるでしょうか。
これは先ほども明るい時に撮影しました鸡蛋煎饼の店です。だいたい同じ位置からです。色彩が安定しているレンズは白が綺麗に写ります。ピュアな明るさで良いと思います。
学食で勉強している学生と通りかかる掃除のおばちゃんです。安い寮は大勢での共同生活ですので、こういうところの方が落ち着いて勉強できるのかもしれません。食べ物も豊富なので夜食にも困りません。学食はテレビもありますので、たくさん人が集まっています。
これは揚物を売っているのだと思います。ライカのようにシャドーまで写りませんから暗く潰れているところが多くなっていますがこれも一種の味でしょう。開放でこれだけ安定していたら現代レンズみたいです。東ドイツの高度な工業技術があったから作れたものと思います。
かなり暗いので不安はありましたが、何とか撮れました。中途半端であっても、ある程度の光量さえあればf1.5が活かされ、手持ちでも十分に撮影可能です。
ということで、ツァイスの傑作レンズ、ゾナーを見て参りましたが、全体的に振り返ってみると、昼間はドイツ古典派の味わいがあって、一方夜になるとベルリン派の特徴が出てくるということで良いと思います。何となく過渡期のレンズだったのでないかという印象があります。しかし技術的には十分に完成に達していたと思います。しかしモノクロで撮ると芸術的にも十分に完成していると見なせるので、これは1つの結論だったという見方もできないことはありません。ドイツ古典派については、この次の稿でダゴールをご覧いただきますので比較してみて下さい。
旧満州の瀋陽というところに行ってきたので撮影して参りました。
東京駅の設計をした人の弟子が満州国時代に東京駅に似せて設計したという古い駅がまだ使われています。簡体字の表示はもちろん後代のものですが、周囲にも似たような古い建築が残っているので駅がどこなのかはっきりわかって良いと思います。意外と全体のデザインも損なっていません。
その駅を背にして満州国時代の大通りを眺めます。この前日までは見通しは良かったようですが、この日から暖気が入ったので焚かれた石炭で曇ってきています。この1週間後にはピーエムなる指標で1000を越えるという記録的な濃霧に見舞われることになります。中国では国が暖房を供給し、内モンゴルでは石炭を産出すること、石炭の国際価格が暴落していることなどで他の燃料には変え難い、さらに風が弱いなど多くの条件が重なった上で公害が発生しています。
大通りを進みますと、ダンスホールとホテルの建物があります。満州国時代市内最大の百貨店だったこの建物も現代的な巨大ビル群に囲まれて窮屈そうです。
南欧風のこの洒落た建物はネットの情報によると満州国時代には証券取引所だったようです。
全ての歴史的建造物にはこのようなプレートが嵌め込まれ保護の対象になっています。
多くの歴史的建造物は今でも使われていますので、公共の場所であれば入ることができますが、その内の1つで満州国時代にはヤマト旅館とされていた瀋陽最高の高級ホテルがまだありますので宿泊します。現在は遼寧宾馆という名称です。かつてここに関東軍の司令室があったとか、歴史的な舞台でもありましたので、しっかりあちこちを見て回ってきました。宿については微信(2015.11.06)にアップしていますのでここでは内装を見ていくことにします。
満州国時代というと大正期の建築になるのだと思いますが、シンプルさと豪華さという相反するものが同居したような、簡素な中にも貴族的文化を残したようなところがあるような気がします。そしてその中心には灯があります。灯こそが空間の性格を決定づけている、アールヌーボー様式のランプから煌めく光が格調をもたらしているということは、ここだけではなかったということには後で気がつきました。
ホテルロビーのタイルはオリエント調ですが、全体の雰囲気に実によくマッチしています。この建物は全部がホテルとして使われているわけではなく、裏に廻ると別の入り口があります。そこを入ると日本料理屋があります。
こちらは日本料理屋の中ですが、配色はホテル側と同様です。
その料理屋は「甲子園」と言います。もしかして満州国時代からこの名称なのでしょうか。
接待にも使われるのか、瀋陽東芝と書いてあるのが数本あります。
内装はまあまあではありますが、ランプだけは素晴らしい、甲子園というワードからは到底想像し得ない雅な光を放っています。売り飛ばされずにしっかり使われているのは、中国のこれまでの歴史的経過を考えると意外な気がします。Sonnarはツァイスのレンズらしく高性能ですが、単に高性能に留まっていないと感じられるのはこういう人工光を撮影した時です。レンズが設計された時と同時代の光が撮れる、懐古趣味的な光が撮れると思います。
瀋陽にも清朝太祖ヌルハチが建設したという皇宮がありますので見に行きます。
故宮の外壁は何ですか? 文化財です。お年寄りがこちらを睨んでいるのは、何らかの液体のようなものを注いだ、いや、本当のところはわからない、注いでいるのであろう対象とは関係ない、むしろこういったシーンを撮影する者を断罪しているのです。
だからこそ、こういう立派な門が今でも残っていることに驚きを感じるのです。放尿する民に囲まれていても残ったということが奇跡に思えます。
美しい朱色の壁、その基部、床石は復刻されていて古いものではなさそうです。地面の状態と壁を維持するのはかなりたいへんなようです。
こういった故宮のような一級文化財に観光化されてから用意されたものというのはかなりコストのかかったものが使われています。人が相当数出入りしますので、いろんなものが酷使されますが、それでも故障しないようなものが備えられています。こういう本当に良いものは古くなってきてから味わいが出てくるような気がします。20世紀のものですがこれもまた見ごたえがあります。
支配するということと天文は切り離せない関係があります。天文の研究は農業と軍事に密接な関係があるからです。国家予算を潤沢に投じられた天文器具は豪華なものが多いのはそのためです。精度も現代の研究者が驚くほどのレベルです。
本当にしっかりした建物はなかなか倒れないものですが、さすがに500年以上経過しているとそういうわけにはいかないようで、あちこちが斜めになっています。そのための対策もなされていますがたいへんそうに見えます。
修復は一部は進められ、一部は手付かずです。
皇帝の玉座周囲に立てられる衝立ですが、補修した後、このように元の場所に搬入されています。
故宮の中に図書館があるのには驚きました。公文書の保管も兼ねていたとは思いますが、皇帝が学ぶためにこういう建物、さらに向かいに巨大な書庫まで建設されているのには驚きました。書庫の脇を進むとすぐのところに劇場があるので、図書館と劇場を同時に使う配置にはなっていないことがわかります。どちらも教養の一環として同じ場所に集められていたのだと思います。書庫は図書館と劇場の中間にあるので、書庫には楽書もあったのだろうと思います。これほどまでに教養を重んじていたということ、ここから中国全土を400年支配する王朝が出た理由がこれを見るとわかるような気がします。
ところで教育科目の中に音楽が入っており劇場まで建設されていたというのはどういうことでしょうか。これは基本的に音楽家になるための教育ではありません。地理や歴史を学んでも学者になるわけではないのと同じです。塩野七生著「ローマ人の物語 8 ユリウス・カエサル(ルビコン以前 上)第二章 少年期」は始めにイタリアで雇われる家庭教師についての記述から始まります。ここに基本的な7科目(ギリシャ・ラテン語、修辞学、弁証学、数学、幾何学、歴史、地理)以外に天文学、建築、音楽も教える場合があるとあり、当時の文化的先進国だったギリシャがなぜ音楽教育を重視していたかが書かれています。「音楽を奏する技能の習得というよりも、調和の感覚を磨くためだった」とあります。これは音の調和を通して様々な事象に内在するグレーゾーンに対する洞察を身に付けるということを意味しています。音楽を学問としてやっていないと考え方が白と黒だけになってしまいがちであり、曖昧なものは捉えられない、深い洞察力を得るためにアテネでは音楽は必修だったということを言っています。こんな観点から音楽がカリキュラムに組まれている教育プログラムは他には聞いたことがありません。思うに清の宮廷はこの教育概念を取り入れたのだと思います。
尚、ここで基調となっている色彩は緑になっています。政治的な建物は赤と金が優勢ですが、ここでは落ち着いた、しかし格調のある色彩が使われています。内と外で使う色が違うという、すべてが金で埋め尽くされてはいなかったという点にも強さの秘密が見えるような気がします。
正面の壁にドアがついている童話の世界のような建物が書庫です。こういう構造ということは建物の前に何かあった筈です。その構造物はかなり美しかったであろうと想像されます。劇場と書庫はもう少し大きい画が微信にアップしてあります。
政治に関係するエリアでは赤が圧倒的です。石にも彩色が施されていたようで、完全に残っていれば豪華なものであっただろうと想像されます。
使われている色は赤、緑、白、黒、黄(金)で、おそらく5行とか古い中国の習慣に基づいたものです。配色は風水師によって決められていたと考えられます。住居部分に近づくにしたがい、黒や緑が優勢になってきます。しかし壁は朱と決まっているようで、これは変わりません。図書館が一番奥で、赤い宮廷とは対象的です。
門をくぐると正面にこのような焼き物が飾られています。右は壁で左に行くと後宮の庭に出ます。この門は東、後宮は中央、図書館は西です。この焼き物の中に赤は使われていないし、後宮エリアでは赤はありますが、役割が変わっているという感じがします。赤が脇役に後退します。
外から中は見えにくいので、ここから様子を覘いていたのか、見張りのためだと思います。
かつての政府があった場所、後宮でも憩いを楽しんでいるのは市民です。地元の老人は無料で入れるパスを持っていたりしますので、割と全域で見受けられます。
屋根は極力、黄金色でこだわっているようです。
土産店は後宮全域で展開しています。
故宮の付近には旧市街の大通りで「中街」という通りがあります。かなり歴史があるようで、アイスクリームで有名なようです。「老中街冰棍」という冰点(冷たい菓子)が北京にまで売っていたりします。
旧満州というと文化はお笑いです。2人組で組み合わせは男女が多いです。ほとんど夫婦ですが、同性のペアも少しあります。有力者は正月にテレビで見ることができます。そういう人を直に見れるのがこういう劇場で、その人気の程はこの建物を見れば明らかでしょう。北京にもありますが、訳のわからない外国人まで笑ってしまう程のインパクトはありませんので、人気は今1つです。しかし満州お笑いの破壊力は相当なもので、客席の通路まで走り回るなどやりたい放題、途中で退席すると市民からきちがいのように見られます。