前稿ではライツ Leitz ヘクトール Hektor 28mm f6.3を確認しましたので、ツァイス Zaiss ゾナー Sonnar 50mm f1.5と比較します。
ライツのように繊細な感じには写りません。どちらかというと、じっとりした感じです。ヘクトールは繊細さが感じられたのに対して、ゾナーには瑞々しさがあります。ライツは"空気"が撮れる感が勝るのに対して、ツァイスは"湿気"が写る感じです。写っているものの素材の捉え方が違います。
中庭で斜めから光が差し込む似たような状況ですが、空気感まで変化させるに至っていません。肉眼で見えるものがそのまま写っている感じなので、ライツより優秀な感じがすると言えば確かにそうだろうとは思います。
今度は、明るい場所と暗い部分のコントラストが激しい難しい条件下での撮影です。シャドーは完全に潰れるには至っていませんが、肉眼より見えにくくなっています。ライツのレンズではこのようにはなりません。
これも厳しい条件です。中央に光り輝く凍結した湖があります。その強い影響で、手前の人物と樹木、そして背景の東屋と林がほぼ潰れています。ライツレンズであれば、もう少し前後が浮かび上がるようなバランスの良い描写が得られた筈です。
開放値がf1.5ともなると日中屋外で開放で撮るのは難しいので、室内に場所を移しますと、例えばこういう感じになります。ツァイスはこういう人工光に対して宝石のような捉え方をしますが、ライツはベールを帯びたような神秘性が宿ります。
ライツは空気感を捉え、ツァイスは素材に忠実です。ツァイスのレンズの方が性能の観点から優秀ですが、単にそこに留まらず、より魅力的な表現も追求しています。ライカのレンズは雨や曇りの時に非常に印象的な画を作りあたかも絵画のように見えることもありますが、ツァイスで雨を撮ると女性の口紅のような艶やかさが感じられるような写りになります。どちらも非常に魅力的ですがその実は全く違います。
ライカのレンズはおそらくシャドーの解像力を中心にレンズを設計しています。明るい方は捨てて暗い方に重心を置いています。こういう発想はおそらく写真がモノクロの時代だったからかもしれません。グレーの階調の豊富さに拘っています。しかしツァイスのレンズがこの点で劣っているわけではありません。ツァイスは端正な階調の中に艶やかさや生命感を宿しています。ライツは繊細です。繊細な方が階調表現が生きやすいし、このことによって肉眼では見えにくい微妙な空気感も写ってしまうのです。
驚くべきは、この戦前の両者のレンズに見られた特徴が現代にも受け継がれていることです。ベレクとベルテレの両人はすでに亡くなって久しいですが、彼らの感性の根本の部分は血統のようなものとして両社に残されています。古いオリジナルは、ストイックに理想を追求しているゆえに駄目な部分と突出した部分が混在しており、それゆえ撮影者との芸風が噛み合えば素晴らしい絵筆となります。
このストイックから安定への過程で作られたレンズはどうでしょうか。ベレクの死去によって一つの時代が終わった時に後進がさらなる高みを目指して開発したものの中で象徴的なレンズがズミクロンです。何の高みでしょうか。それはおそらくベレクが追求していた繊細さへの欲求だったと思われます。過去にアサヒカメラ誌の企画でレンズの解像度を調べるというものがあり、その時のズミクロンの解像度は後の時代のレンズと比較しても桁外れで審査員らを驚愕させたと言われています。
もちろんズミクロンは他にも優れた点があり完成されたものです。最大公約数的完成に達している点ではベレク的ではないものの、追求された理想を前進させたというストイックさに於ては十分にベレク的です。ライツ社はこのレンズを開発した後にも変わることなく前進し続けましたが、ストイックさは必要としなくなりました。それはレンズ設計が現代よりもはるかに難しかった時代に必要なものだったからかもしれません。ビンテージレンズと現代レンズの決定的な違いはまさにこの部分です。完璧と狂気、この2つの時代のちょうど狭間にあったレンズとしてズミクロンを捉えるなら、ライカレンズの長い歴史の中で分水嶺に位置するものとして特別なレンズという気がいたします。