"写真レンズ"というと昔は人物撮影専用、それと風景専用の2種類がありました。人物撮影の方はシャッター速度が求められ画角は望遠系となりますが、風景のそれは広角でf値は暗いものでした。人物撮影用のレンズは、基本的に風景用レンズを2つ離して置く方法で着想され、職人が経験に基づいてガラスを磨いて作っていました。しかしさらに高性能なレンズを作るためにウィーン大学の数学教授ペッツバールがオーストリア砲兵隊の協力を得て幾何学計算に基づく初めてのレンズを開発しました。1840年のことでした。その後まずフォクトレンダーによって発売されたものが好評され、後に広くコピーされて同型の多くのレンズが作られるようになっていきました。これは今日では「ペッツバール型」と言われ、同様の設計はプロジェクターのレンズなどに今でも使われています。
このレンズは真鍮の鏡胴に収められ、外側にメーカー名が筆記体で記載されていることが多く、ほとんどのレンズに焦点距離と明るさは書かれていません。メーカー名の記載がないものも多数あります。ペッツバール型レンズを製造していた初期の主要メーカーのリストがキングズレークの本に載っていましたのでここに掲載しておきます。
ドイツ | フォクトレンダー Voigtlander |
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シュタインハイル Steinheil | |
ブッシュ Busch | |
フランス | エルマジー Hermagis |
オズー Auzoux | |
ガスク・エ・シャルコネ Gasc & Charconnet | |
ドゥロジー Derogy | |
ルルブール・エ・スクレタン Lereboure & Secretan | |
ジャマン・エ・ダルロー Lamin & Darlot | |
イギリス | ロス Ross |
ダルメイヤー Dallmeyer | |
スイス | ズーター Suter |
アメリカ | ハリスン Harrison |
ホームズ・ブース & ヘイドンス Holmes Booth & Haydens |
このレンズはダゲレオタイプのカメラで撮影されるためのもので、板に固定するためのマウントがあります。ラック&ピニオン式と呼ばれる対焦機構が付いている特徴があります。ダゲレオタイプは銀版写真とも呼ばれ、銅板の上に銀メッキしたものに薬剤を塗ってそこに写真を焼き付けていました。主に肖像写真館で業務用に使われ、撮影する人数によって距離と絞りを変えていました。絞りは真ん中に穴の空いた札のようなものをスリットに差し込んで調節しました。今日入手できるレンズのほとんどは絞り板を紛失しています。
風景用はよりコンパクトで、ターレット型の絞りが付いています。
ここで作例をご覧いただきますレンズはフランス・ダルロー社のペッツバールレンズで絞り用のスリットがありません。ただメーカー名の記載があるのみで、実際には5.5"(135mm前後)F3ぐらいというスペックです。絞りがないのでスライド投影用と思われますが、この当時のものであれば撮影に使っても特に問題はありません。絞りは開放しか使わないのでこれも構いません。焦点距離はこれだけ短いものはなかなかないので、現代のデジカメで使うには重宝なものです。本来は90mm前後のものがベストですが、ダゲレオタイプは大判写真ですので90mmというと広角になってしまいます。肖像写真用は数百mmになりますから、デジタルで使うにはたいへん使いにくいものです。このフォーマットの落差があるゆえにブラスレンズは敷居が高くなっています。そういう状況ですので135mmであればしぶしぶ満足するしかありません。しかも絞りがないことでダルローのレンズが格安で入手できるわけですから、うまい落とし所を見いだしたと考えた方がいいかもしれません。そういうことで、だいぶん以前からなぜか売れずにヤフオクで出品され続けていたこのレンズを、中国で安いマウント改造屋が見つかったこともあってようやく購入に至りました。これにライカビゾフレックス用の筒を特注し撮影に及びたいと思います。
おそらく今回のダルロー Darlotのブラスレンズは5.5inch(f3)ですから、R-D1使用で175~180mm相当になるということで、レンジファインダーカメラ使用者にはほとんど縁のない長さとなり、ほぼテリート級レンズとなります。こういう長玉をどうしたら良いのか、幾つか撮影場所を検討しましたが、寒くなってきたということもあるし温かい温室があるらしいという情報で北京植物園といたしました。
このレンズがこれほどの長さに相当するのは、現代のセンサーが小さいからです。ブラスレンズを使っていた時代は乾板がもっと大きかったので、おそらく35mmぐらいに相当する焦点距離の筈です。そうであれば、実際に使うことが想定されている画の面積よりもかなり小さい範囲しか使わないことになり、これで描写を論じるのは難しく、中心の描写の良いあたりしかわからないという問題も出てきます。それでもある程度のことはわかると思いますので、とにかく使っていくことにします。
ライカビゾを使って、ラック&ピニオン方式の対焦機構を使った距離合わせでは、無限遠から50cmぐらいまで寄ることができます。近いところから花を撮るとしても、下がる必要があまりないので、図体の大きさの割に小回りが利くという意外さがあります。マクロのような撮影も可能です。それでもこれだけ長いもので撮るとなるとブレやすくなります。手持ちで近接はかなりやり直す必要があり、暗いところではほとんど無理です。三脚があった方が良かったと思います。
「入らないで下さい」と書いてあります。書いてなくても誰も入らないと思いますがいかがでしょうか。サボテンより目立っています。サボテン見てかわいいという人もいるし、サボテンの子供(或いはミニチュアに改良したサボテンか?)は実際に売っているぐらいなので、入って戯れようという人がいても不思議はないのかもしれません。
柄にもなくナショナルジオグラフィックみたいな写真を撮ってしまいました。19世紀のレンズを使ってここまで普通に撮れると想像していなかったので、描写確認のため試験的に1枚押えたものですが、特に言うことはありませんでした。現代レンズのようです。
思うに本レンズで近接撮影というのは、想定されて作られてはいないと思います。プロジェクター用のレンズですが、レンズ構成はポートレートにも使われるものでしたので、人物撮影用と仮定すれば、やはりある程度の距離を空けての撮影が期待されていたと思います。この作例でもまだ近いかもしれませんが、白膜が出てきています。近接ではかなり鮮明ですが、それは本来ではなく、白膜が出るのが普通なのだろうと思います。
人は成長すると自立しますが、こいつらは成長と共に支えが必要です。北京市当局より特注のリングをあてがわれています。距離を離したので白膜が濃厚になって参りました。白膜についてはフランスの品格が導き出した3つの表現のフランス系レンズの特徴も参照してみて下さい。
この例では、対象の輪郭が柔らかく感じられます。一方で細かい毛まで写る繊細さもあり、そこは現代レンズに勝るとも劣らないものが感じられます。
よくよく見ると描写が少し甘い気もしないでもありません。本レンズの実際の用途ではもっと大きなフィルム面に焼き付けるのでこれだけ限定的に見て甘ければ、画を大きくした時にはもっと甘くなると思います。そこまで見てみないとペッツバールレンズの本来の姿はわからないかもしれません。
背景のボケは水彩画のようです。
光の量によっては、白膜が出にくいようです。もっとも室内で使う筈の本レンズは、これも本来の使い方ではないと思います。
公園に来て木の実を拾う人は結構います。輪郭が柔らかく滲みも出ています。これがポートレート撮影では効果的なのだろうと思います。しかしこの画角でもっと引付けて撮影した時にこの効果が活かせるかはわかりません。光の具合次第のように思います。
もっと距離を空けて無限遠よりも少し手前といったあたりですが、さきほどよりももっと鮮明さを失っています。引付けて撮ると鮮明になりますが、少しは残りますので、その辺の匙加減がポイントなのだろうと思います。
もうかなり暗くなってきているのですが、光が少ないと鮮明さが戻り、白膜も消えます。
松がシルエットになっています。綿を帯びたようなボケになるのが特徴のようです。いっそのこと、全部を焦点外にすればもっと幻想的だったかもしれません。
暗くなってきていますので、肉眼で確認してもあまりはっきりしていない景色なのですが、西日がまだもう少し残っていますので、それを拾って白膜を出しています。こういう撮影は本レンズの用途ではないので、参考になる画ではありません。ともかく散景はこういう感じです。
まず本来の使い方としてポートレートでの用途を考えてみますが、天然光で人物の胸より上を撮ろうと思えば、白膜は出そうです。ここから焼きでどう持っていくかというところだろうと思います。もっとも、これはスタジオで使うべきレンズではありますが・・・。室内での霧膜型の使用は人物撮影には一番合うと思うので、良い雰囲気の画が得られるのではないかと思います。
近接撮影は、マクロレンズを使う代わりに本レンズを使用することも可能だと思います。背景の状態がこれだけの望遠と一般的な広角から中望遠ぐらいまでのマクロでは違ってくると思うので、そこらへんの見方次第だろうと思います。遠景はこのレンズの用途ではないような気がします。しかし作画意図に適ったものであれば、使用できないことはありません。