エルマーというレンズは今日、どれぐらい使われているのでしょうか。エルマーはライカ50mmレンズの中で一番暗いという理由で避けられても不思議はないように思います。ズミクロン50mmがたいへん優秀なので、それよりスペックを落として使おうというのはなかなか思い至りません。これは昔も今も同じだと思います。それなのに今でもカタログに載っている現行製品です。1925年以来、ずっとラインナップされています。エルマーを置くことによって安価なモデルも維持しておきたいということでしょうか。それだけの理由でこれだけ長期に大きな変更もなくカタログに載り続けているというのも不自然です。思うにエルマーがなくならないのは、ライカ社とユーザーがエルマーの魔力を知っているからだろうと思います。
エルマー50mm光学設計図
エルマーは今でもかけがえのないものでしょうか。おそらくこれに代わるものはないと思います。ズミクロンはどうでしょうか。レンズ構成が違いますので味わいが異なります。エルマーがなくなってもズミクロンがあればいいという考えもあり得ます。しかしエルマーには他のレンズにはない確固とした魅力が備わっているので、省みられなくなることは決してなく、"エルマーでなければならない"理由もあるのだろうと思います。現代でもエルマーを買う人は、エルマーの描写でなければ満足できない人たちなのでしょう。
エルマー50mmはあらゆるレンズの原器として使えるぐらい優れています。劣っているのは明るさだけです。このようなレンズについて細かく見ていって評価するのは難しいものです。何を撮っても卒なく写るからです。とはいえ、これ以降、ライカの別の50mmレンズとの比較も必要ですから、ここで採り上げることにします。
作例は昨日今日と張家界・武陵源(zhang-jia-jie・wu-ling-yuan)にて、すべて49年製コート有りのライツ Leitz エルマー Elmar 50mm f3.5で撮影いたしました。
エルマーの特徴がより明確に出た画として20,30年代から紹介されているのは、だいたいこのような傾向の写真です。陰影の美しさを強調したものです。まるで無限に見える階調の豊富さです。
かなり古い壁なので、かつては色鮮やかだったであろう装飾も煙んでいます。それでも明確な色彩は十分に留めています。エルマーのこのような捉え方は秀逸です。
背景の建物のボケの滲み具合はエルマー的です。硬質ですが、うるさい感じはなく、むしろ印象的です。エルマーが時折見せる絵画的な描写はこのボケ方と関係ありますので、1つの際立った特徴と言えると思います。
影の捉え方に特徴が感じられます。じっとりと色濃く描写しています。それでも潰れるには至っていません。
陰影の深さとじっとりした発色が肌を奇麗に描写していることがわかります。
中央に貸衣装を来た女性が写っていますが、この距離であれば、ズミクロンの方が対象を浮かび上がらせます。エルマーはよりニュートラルです。
対象の浮き方についてもう少し見ていきますと、まず左端のご老人、中央付近の民族衣装の皆さん、そして奥の方にも人がいます。それぞれ見ますと、手前の方が明確に背景と切り離されます。背景との距離はあまり関係ありません。
こういう画では、一般的には単に詳細に描写されるだけですが、エルマーで撮影した場合は、前に迫ってくるようなところがあります。ボケ方が関係していますので、絞るとこの特徴もなくなっていきます。
高い山に登るので帽子をかぶっている人が多いです。だれかが忘れていった帽子が休憩所に掛けてあります。麦わらの編み目の繊細さや背景との調和も申し分ありません。
張家界の山々はこんな感じです。遠くが白んでいる様子も奇麗に撮れています。
街に戻って夜、外を出歩きますとたくさんの屋台が出ています。光の当たったところが艶やかに描写されています。
これは休憩中ではありません。この状態で顔を上げて顧客に語りかけます。座ったままです。何事にも気を遣わなくて良いというのは意外と楽、不思議なもので、これも悪くないとだんだん思えるようになってきます。
少数民族の居住地域なので、地元のスーパーに行くとこういう吊った飾りがあります。このタペストリーは商品ではありません。見ているだけで、服務員がわざわざ「これは売らない」と言いに来たので購入希望者が少なくないのかもしれません。そして「これを買いな」といって酒のボトルを勧めます。地元産の茶や酒を売るコーナーなのです。