無一居

写真レンズの復刻「むいちきょ」
紀元2012年1月創業




幻想的な肖像鏡 へクトール Hector
「花影」S2 73mm f2

2015.02.01

 ベレクがトリプレットからすべてのガラスを貼り合わせ色消しにした「ヘクトール Hector」は3つほど特許が出願されています。そのうち、1番目のものは50mm f2.5、2番目のものは73mm f1.9(パテントではf1.8)として実際に販売されました。そこで3つ目のものなのですが、少し暗くなって73mm f2です。肖像用のレンズなのでそれほど売れなかったことでこの改良型は生産されることはなかったようです。しかし最も優れているように見えます (独特許 DE585456)。

第3ヘクトール ガラス配置図 第3ヘクトール 縦収差図 第3ヘクトール 横収差図  これをf1.9に変更すると球面収差がアンダー、というよりマイナスに突っ込まれます。-1.5mmですから大き過ぎます。f2でもマイナスです。絞るとオーバーになったりアンダーになったりします。従来よりこの形を求めていたようで、これで完成した感があります。ベレクにとっての肖像用の最終回答だったのではないでしょうか。そう考えるとこれが実際に作られなかったのは残念です。

 このレンズはもう一つ重要な特徴があります。その説明のために2番目の設計だった73mm f1.9も確認します (独特許 DE526308)。これは実際に販売されていたものです。
ヘクトール 73mm ガラス配置図 ヘクトール 73mm 縦収差図 ヘクトール 73mm 横収差図  f1.8で指定されていますが製造限界、そのためf1.9で製品化したものと思われます。図はf1.9で出しています。ガラスの選定に特徴があり、すべて前クラウン後フリントの順に貼り合わせ、クラウンはいずれも同じSK15 (以下すべてショット社)です。フリントはF2,LF6,LLF2と順に屈折率、分散が低くなっています。それが下図左です。その右に示している3枚のガラスはダゴールです。ダゴールの場合はこれを前に置いて、次に絞り、そしてひっくり返した同じものをもう一つ置いています。このようなガラスの選び方はダゴールを参考にしたものであると考えられます。
使用ガラスのダゴールとの比較  しかし製造されなかった新型ヘクトールでは、これをやめて6枚の内、前と後の2枚にクラウン、中は全部フリントガラスに変えています。ダゴールは徐々に下げて徐々に戻しています。ヘクトールはそれはしていません。下げたままです。しかしこのことによって、あの繊細な表現が生み出されたのだろうと言われています。片方だけですがそれでも理想的なガラスの使い方です。優しい表現になります。それに対して中をフリントで固めると逆光性能は高まった筈です。73mmはフレアが出ると言われていたのでこの対策だったのでしょう。コーティングをせずに対策できます。ダゴールはクラウンにガラスの薄いフリントにクラウンです。逆光は弱いです。フリントは昔は(今でもありますが)主に鉛を混入して不純物を含めています。重くなります。ダゴールは6枚なのですっきりと光を通したかったのだと思います。それでフリントのプレゼンスを下げ、大判レンズですから重くならないようにも配慮しています。ヘクトールも6枚でさらに空気とガラスの境界も増えています。それなのにフリントで中身を固めています。重厚感のある表現になりそうです。ですから改良はだいぶん印象が違う筈です。

 吉田正太郎著「カメラマンのための写真レンズの科学」3章を見ますと、製品化されたヘクトール 73mmの歪曲について説明しています。焦点距離73mmは半画角は16.8度です。おもに人像写真に使われたヘクトールF1.9では、半画角17° あたりで糸巻型歪曲がピークに達しますが、画面周辺ではまた歪曲が少なくなるように設計してあります。17度は画面の端になりますが、イメージサークルがもっと大きいということで、さらに追跡したようです。そこでこれも確認しましたが、17度以上では潰れてしまいます。もはやこれで限界で、ここからさらに広げていくと計測不能になっていきます。しかしそこを強引にギリギリを攻めていくと確かに歪曲の曲線はゼロに戻る傾向があります。こういう設計は名レンズが多いので、それで指摘したものと思います。そのままどんどん離れていくのは魅力がないレンズが多いです。カーブしているのが良いものが多いです。それでずっと先まで辿って見ていくのだと思います。

 新しい設計の方が優秀だと思いますが、しかしこれを完成させる前にすでに73mm f1.9の製造に着手してしまっていたのかもしれません。特許を取ったということは改良版として販売する意図があった可能性もあります。球面収差の独特のカーブは傾向としてはどちらも同じで、この特徴は維持していますのでこれには拘っていた可能性が高いです。それでも販売本数を見ると、ヘクトール73mmは市場から評価されなかったようですので、改良版は製造中止になったと考えられます。現代でもヘクトール73mmを貴重なものと見なす人は少数なので、取り巻く状況は今も昔も同じなのかもしれません。新しい方が出ていたら状況は変わっていたかもしれません。


 一応、50mm f2.5も確認します (独特許 DE526307)。これはいささか不完全な印象がありますが大筋では傾向は同じです。球面収差をマイナスに突っ込んでいます。
ヘクトール 50mm ガラス配置図 ヘクトール 50mm 縦収差図 ヘクトール 50mm 横収差図

 同じ特許の中に、f8の設計もあります。ヘクトールは28mmがありますが、このような設計ではありませんし、28mmはf6.3あります。f8の画角は56度しかなく、焦点距離では40mm程です。そのため40mmで図を出しています。これも球面収差がマイナスになっています。そのためこれは意図したものと思われ、よく見ると製造されなかった新型ヘクトールもそうなっています。
ヘクトール 40mm ガラス配置図 ヘクトール 40mm 縦収差図 ヘクトール 40mm 横収差図

 エルマリート 90mm f2.8の設計もあります (独特許 DE1023607、米特許 US2995980)。これは90mmのまま出図していますので、50mm換算では収差は図より半分ぐらいになります。収差を減らす方向ではありますが、時代が変わっても頑なに基本的な収差配置を保っていることがわかります。
エルマリート 90mm ガラス配置図 エルマリート 90mm 縦収差図

 テレ・エルマー 135mm f4です (独特許 DE1183707)。135mmで出図しています。
テレ・エルマー 135mm ガラス配置図 テレ・エルマー 135mm 縦収差図
 光学機器は高価なので、汎用のレンズを選んでそれだけで何でも撮影するというのがどうしても一般的になりますから、肖像用の用途に限定されたレンズはとても贅沢です。ライカでもへクトール73mmやタンバール90mmはあまり売れなかったので、これ以降、肖像用に特化したようなレンズは作られなくなっていったように思います。癖玉は使い手を選ぶし、使えないレンズと思ったら有名な写真家がそれを使ってどんどん傑作を撮るということもありますけれど、そういうことが特殊なレンズという評価になってしまい、ネガティブな印象を持たれがちです。特殊というとマウントエルマー105mmもそうかもしれません。癖玉ではないですが用途は限定されていますし、これだったら90mmで問題ないと大概の人が考えますのでなかなか受け入れられません。人類の大多数は山には頻繁に登っていない筈です。そういう経緯があったからなのか、次に設計された中望遠はズマレックス85mmになりエルマーとの比較で口径を二段編成にして汎用だけのラインナップにする、その上で大口径は肖像用も兼ねるという方向になってしまったのかもしれません。そこで幻の第三のへクトールですが、これを販売することが市場から許されていたら、それでも二段編成の流れにはなっていたと思いますが、過渡期の作品として意義深いものがあったように思います。大口径という程ではないので取り回しも良いし大口径で得られるボケ味もありますから、この方が受け入れられやすかったような気がしないでもありません。

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