Kino Plasmatを広角に変えた
「花影」S2 35mm f1.5
2025.11.21
Kino Plasmatは、映画用では42mmがあり、さらに小さいフィルム用に35mmや25mmなどがありますが、ライカのイメージサークルでは50mmが限界です。ここから画角を広げる改造を行いました。基本的に微調整の範囲で、エレメントの間隔を詰めたぐらい、口径はf1.5のまま、収差量も50mmとほぼ同じで、それほど変化はなさそうです。そのため本玉を小店オリジナルと指定することに抵抗がありますが、ドクター・ルドルフが発表したものではないので、ここでは新作という位置付けとしました。
フィルター径?mm。至近距離?m。絞羽?枚。重量は計算値で?g
2027年以降製造
ではなぜルドルフは広角のKino Plasmatを設計しなかったのでしょうか。Kino Plasmatは「キノ」つまり本来は映画撮影のためのものですが、しかし映画も写真も求める要素は基本的には変わりません。求められていたのは肖像撮影のためのレンズでした。絞って収差を善用するにしても、被写界深度が浅ければ人物に使うのは難しくなります。そのため、各社から深度を深くしたレンズが供給されていました。それはつまり
ペッツバールでした。キノはペッツバールの進化形でした。Kino Plasmatはこのような目的に適って設計されたものでした。既に深度が深い広角でKino Plasmatを供給する理由がありませんでした。
光学や物理の観点から撮影レンズを評価した場合、理想的な焦点距離は50~90mmぐらいです。比較的無理なく大口径も設計可能です。傑作の多くはこの焦点距離の範囲です。そして撮影者の観点でも対象を纏まりよく撮影できるのはこの範囲です。望遠は自然やスポーツ、天体など特定の用途のものになるし、広角は都市建築、集合写真のような用途になります。基本的に50mmがあれば十分です。一般的にはさらに85mmを追加するとされています(おそらく75mmぐらいの方が良いでしょう。ライカは73mmでした。各社のキノは2inchが50mm,3inchが75mmでした。ライカは90mmもあり運動会のような用途と思われますが、そこで間を取る感じで85mmが主流になっていたようです)。そこを室内ではヒキがないため、50mmでは狭く感じます。世間に普遍的にある様々な建物内を中心に撮影する場合、50-85mmの感覚が、35-50mmと変化します。
スタジオも含め、室内の環境下で肖像を撮る場合に、ペッツバール派生型のレンズ(キノ)を嫌い、周辺の様々なものをより活かしながら撮影したい目的で広角を使うのは1つの選択肢です。深度がある程度あって寄れるからです。広角は広い範囲を写すため、比較的精緻な描写が求められることから、肖像に対しては描写が硬くなる傾向があります。そのため、レンズの選び方も重要になります。これは1つの方向性です。雑誌のようなものの表紙やポスターなどのために撮影する場合は、文字が入る空白がかなり必要で、また文字も目立たなければなりませんので、空白をどのように置くかを考えた時に、Plasmatのような玉の方が作りやすいのであれば、キノ35mmも存在価値があります。
50mmを使い、室内で中望遠のような感覚で撮影することもできますが、撮影対象の人数が多いとか動画では難しくなります。そこで35mmに変えた時に、キノを選ぶ理由は、それは最早、深度を求めるためではないのは明らかです。Kinoを求めているのではなく、Plasmatを求めている、深度以外の違う要素に目を向けていることになります。とはいえ、動画撮影においてPlasmatの深度はアドバンテージになります。
広角でもキノを選び、それはまた室内での標準レンズでもあります。おそらく、Kino Plasmatが設計された当時は、今より遥かに住宅事情が良く、このようなものは必要ではなかったのでしょう。
ルドルフ設計によるPlasmat広角
パウル・ルドルフは、1918.12.14に広角レンズの特許を申請しています(独特許
DE331807)。このレンズについて、英国ジャーナル誌 1921年 342~3頁で「被写界深度の深いPlasmat」として紹介されました。Plasmatという商標が初めて現れたのがこの時と思われます。写真工業会誌 1921年 257~259頁では、ゲルツ Goerzで20世紀の初めより
ダゴール Dagorを設計していたワルター・ショッケ Walter Zschokkeが、深度の深さに見えるのは「残留色収差によるもの」と推測しました。これらの情報は、このレンズが実際に販売されていたことを示唆しています。現物は全く残っていないと思われます。
ルドルフは第一次大戦後、古巣のツァイス Zeiss(ルドルフはアッベの弟子でツァイス初代写真部長)にPlasmatの製造を依頼し、実際に制作販売されたと言われていますので、それはこれだったと思われます。商標はルダー Rudarでした。ツァイスがルドルフに商標権を与えなかったことがわかります。Rudarは成功せず、メイヤー Meyerの説明によると、ルドルフがKino Plasmat f2を打診するもツァイスは応じず、契約はまもなく打ち切られました。
Kino Plasmatを製造したHugo Meyer
Rudarはドイツで2回、フランス、英国でも特許申請され、計4通あります。内容は重複していますが、設計も4つあります。ここで示しているPlasmat-Rudarは、最も明るいf5のPlasmatです。他は、焦点距離が35mmぐらいしかないMakro Plasmat似、無収差、無収差から球面収差をアンダーの3種です。ルドルフはこの様々なパターンに自信を持っていたようで、このうちの幾つかがZeissで作られたようです。
Rudarは大判の玉で、焦点距離130mmで製造される前提、非常に小型で持ち運びしやすいものでした。収差図はライカ判換算の25mmで表示しました。4x5(標準は180mmぐらい)では130mmで半画角が30°になります。40°までありますので90mmまで可能でした。大判広角Plasmatです。何に使うのでしょうか? 建築や山などの特殊な撮影か、もしかして肖像に使ったのかもしれません。広角にペッツバール的収差を導入したのは、これがおそらく初めてかもしれません。しかも最初に作られたPlasmatでした。そのため、Kino Plasmatが商業的に成功していれば、その広角も製造していた可能性が高いと思われます。より深度を得る目的では、広角にペッツバールを採用する意味は限定的ですが、それだけではないという積極的な評価が設計者自身にもあったことがわかります。
戻る
Since 2012 写真レンズの復刻「無一居」 is licensed under a Creative Commons 表示 4.0 日本 License.