無一居

写真レンズの復刻「むいちきょ」
紀元2012年1月創業




クセ玉ボケ玉について

性能とは結局何なのか? - 2023.05.16

 写真レンズは優秀である必要があります。

 レンズは黎明期においては職人の勘での磨きと、幾何学計算で正確に値を設定するの大まかに2種類の方法がありましたが、すぐに勘で手磨きというのは無くなりました。ボケ玉より優秀な性能の方が優れているからです。この原則は現代に至るまで変わっていません。

 ということは、クセ玉ボケ玉のようなものはゴミでしょうか? 基本的にはそう考えていただいて結構でしょう。ぐるぐるボケが出るレンズは優秀でしょうか? 優秀ではないでしょう。これはまず重要な点、当然のことであると認識せねばなりません。変な収差が出るものが良しと勘違いしている人も少なくありませんが常識的にはそのような考え方はしないでしょう。まずこれがボケ玉理解の第一歩です。


 写真レンズは製品なので、どれぐらいのコストが許されるかというところでグレードがあります。時代よりもこのグレードの方が質に大きく影響します。古いものだから性能が悪いとは限らず、今年の新作が非常に優秀とも限りません。第一次世界大戦では偵察プロペラ機で航空写真を撮影していましたが、これは目が痛いぐらい鋭利な写りでした。ほぼ完全無収差であったことが特許データで明らかになっています。こういうものは産業、医療、化学などの分野では必要なものです。しかし一般的な写真でこのようなものは、本当にキツすぎて見るのも辛い、無収差=優秀ではないということを感じさせます。

 このことは写真レンズの黎明期から認識されていたようです。絵画は芸術品として価値がありますが、写真は記録として価値があります。これは全く異なるようでありながら、意外とそうでもありません。王侯貴族が肖像画を描かせるのは記録のためなので、写真に置き換えても何ら問題はなく、写真はまず肖像からでした。そのニーズのためでした。

 そういう背景からペッツバール・レンズが設計されています。昔の人だから、肖像写真を額で掲載します。それが単に正確に写っているだけでは、美術品のような印象はありません。性能は問題ない、そういう問題ではない、美術になり得るかが問われていました。

 この難題への挑戦が活発だったのは19世紀より20世紀初め頃でした。そしてカラーフィルムが出た頃には、絵画と写真は別のものとして認識されていったように思います。それは何か結論が出たというよりも、写真が一般にも普及してしまって、絵画性を求めることもなくなったからだと思います。肖像画や初期の肖像写真は高価だったことで価値が置かれていたものが安くなってしまったので、そこで美術性を求めるということもなくなったのではないかと思います。

浮世絵
 写真は絵画と違って、幾らでも複製できるので価値が下がるでしょうか? それは確かにあるでしょう。リトグラフは決して安価とは言い難い額での取引ですが、原画とは比較にならないぐらい安価です。それでも作品価値があり、また写真も同様です。

 絵画のように撮影できるレンズが優秀、これも1つの方向性を示しているだけで、写真が絵画と同等にならねばならないということはありません。様々な狙いがあります。しかし産業用レンズと絵画のようなレンズは両極端、価値基準のあり方を明確に示しています。優秀というのは目的によります。どんな結果を手にしたいかで何が優秀なのか変わってくるということです。

 ペッツバールレンズは画期的な発明でしたが、間も無く淘汰されました。肖像用としてはラピッド・レクチリニア、あるいはトリプレットの方が良いことが判明し、後にガウスも好んで使われるようになりました。しかしペッツバールレンズが示した収差配置は、キノ(映画)に適用されて現代でも使用されています。目的に対しどんな結果を求めるか、それによって優秀とも駄作ともなります。


 その観点から見ると、ボケ玉とは何か、それは扱いやすいとは決して言えない収差が含められているレンズを便宜上、我々がそのように分類しているだけで、それをボケ玉などと言うのは大変に失礼、ですが昔の人が作ったものであるし便利なのでボケ玉と呼んでいます。それも色々あって、当然に良し悪しもあります。なぜなら目的があるからです。そこにどれだけコミットしているかで優秀性が決まるからです。芸術的なボケ玉を乗りこなすようになると、人々がなぜ携帯のレンズで満足しているのかよくわからなくなります。

東京都写真美術館
 19世紀末から20世紀初めにかけてのパリでは、絵画と写真は別のものとして評価が分けられていました。当時活躍していたウジェーヌ・アジェは、パリの街並みや人々を撮影し、その記録をパリ国立図書館に納めていました。美術館が収蔵するようになったのは後代のことでした。またアジェは、画家に対する資料として写真を撮影していました。画家が購入しその写真を見て絵を描いていました。絵画的な構図が求められたので、アオリを多用し、隅がケラれても関係ありませんでした。資料だったからです。問題点があろうが関係なしに、現代では偉大な巨匠の作品として絵画と同等の価値があります。

 絵画のように撮影するために必ずしもボケ玉が必要というわけではありません。そもそもボケ玉というのは欠点が見えやすいレンズを示しているに過ぎません。アジェが使用していたレンズはボケ玉ではないし、オールドライカのエルマーもボケ玉ではありませんが絵画的な写真が撮れます。だからといって、欠点が見えやすい玉を否定することもありません。欠点は出さないようにするか、善用せねばならないので面倒ですが、その代償としてリターンも大きい、だからそういうものを作るわけで、実際のところ、ボケ玉のほとんどはどうしようもない使えないものです。良いものはそんなにたくさんあるわけではありません。その多くはキノ、長時間映像を見せるわけですから、観客に変な疲労ストレスを与えてはいけませんので、そのための対策としてかなり収差が多い玉を作ります。ボケてるから良いわけではないという常識に立ち返る必要があります。収差を多用する玉で、飽きないものを作るのは至難です。そのため、傑作とされるものは限られています。

 ボケ玉癖玉は全く理解できないという人は少なくありません。それは、そういうものがなぜ作られたのか、目的を理解していないからです。結局はどういう画を求めるかなのです。画を見て、そこに宿る芸術性が見えなければ、どの玉も理解は困難です。

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