静謐な世界観を持つ Kleinbild **DE572222**
商標権が取得されている名称は使用できませんので引用元の「**DE401630**」ような形で表記することに致しました。ご迷惑をお掛けします。 - 2025.3.17
パウル・ルドルフ Paul Rudolphは、この設計こそが最高だと信じ、このレンズのために会社を設立し、亡くなるまで布教に努めました。最高の設計は標準画角が望まれますが、クラシックな設計で広角はなかなか良いものがないので、焦点距離は35mmまで達しますのでまずは35mmで検討しています。
ルドルフはツァイス Zeissで成功して退職した後、第一次世界大戦のハイパーインフレで財産を失ったことで復職しました。しかしまもなくツァイスを出、ドレスデンのフーゴ・メイヤー Hugo Meyer社に協力するようになりました。この契約は期間が10年だった可能性があり、メイヤーとの協業からちょうど10年後の1932年に自身の会社を設立しました。「Plasmat-Dienst am Kunden GmbH」で所在地は息子の別荘があったハノーヴァーでした。設立の目的はこのようになっていました。
「当社の目的は、ゲルリッツ近郊のGroßbiesnitzにあるパウル・ルドルフ博士の特許に基づく写真レンズ「Plasmat」を可能な限り広く流通させ、Plasmatの顧客にレンズと必要なすべての付属品に関するアドバイスと供給を提供することです。当社は、顧客のためにすべての写真技術作業を実行し、同様の会社に参加する権限を有しています。」
ゲルリッツ近郊とはメイヤー社のことです。メイヤーで開発したPlasmatを広く世に知らしめることを目的としていました。Plasmatの優秀性を広めるためにはカメラも必要でした。カメラメーカーからレンズを採用して貰うのは難しかったため、カメラとセットで販売する必要があったためでした。その4.5 x 6の中判カメラ「ローランド」は、世界最初のレンジファインダーと言われ、レンズは70mm f2.7のKleinbild Plasmat(独特許 DE572222)が取り付けられていました。
35年春にはベルリンに移り、社名は「Kleinbild-Plasmat-Gesellschaft Dr. Winkler & Co.」に変更されていました。この春のフォトキナでの出品では注目されましたが、閉会する2日前にルドルフは亡くなりました。その数ヶ月後の広告での社名はDr.Winklerの名前が消え「Kleinbild-Plasmat-Gesellschaft, Berlin」、翌年のベルリン・オリンピックで「スポーツ・カメラ」として宣伝された時は「Kamerabau-Gesellschaft Rudolph & Co. Berlin Charlottenburg」が製造元となり、ルドルフ息子が関わっていたと推測できます。そして36年7月におそらくハノーヴァーに戻して社名も最初のものに戻したのか「Plasmat-Dienst am Kunden GmbH」となり解散しました。
Kleinbild Plasmatは元はMiniature Plasmatという名称だったので、Makro Plasmatと同類と言えます。しかしいずれも近接撮影するようなカメラは作られていませんでした。寄れる筈ですが、25cmぐらいが限界という印象です。4つの設計が残されていて、最後のものが製品化されました。口径はf2.7で焦点距離50mmで出図ですが、画角は35mm相当です。クセノター Xenotar型の発展系と思われます。
