タンバールは対象を浮かび上がらせる魔法のレンズ
中世の貴族は個人や家族の肖像を残す場合、画家を呼んで描いていました。やがて写真が発明されてからは庶民でも肖像を残すことができるようになりました。しかし機材はまだ高価だったので専門の写真館で撮影していました。このように肖像画のニーズが古くからあったので肖像用に開発されたレンズも写真の初期の頃からあって設計も既に成熟していました。それがハリウッドに応用され、そこからソフトフォーカスも有力な撮影テクニックとして確立されていました。それがまたスチールにも応用されていきました。その1つとして独エルンスト・ライツ Ernst Leitz社が90mm f2.2のソフト・フォーカスレンズ タンバール Thambarを1930年代にライカ・カメラ用に開発しました。戦前ですのでまだまだ高価で、当時日本の基準で家が一件買えるぐらいの価格水準ではありましたが、全生産数3000本余りはあったと言われています。
独ライツ社・タンバール
ボケ方が独特だったため、後代にその設計思想を継承したレンズはほとんどありませんでした。(1980年のフォトキナで発表された高野栄一氏の設計によるタムロンSP70~150mm f2.8 SOFTは、ズームとソフト量の調節が出来るというすごいものですが、このレンズのソフト効果はタンバールと同じです。古いレンズを研究されたのかもしれません。高野氏はその後、キヨハラソフトというベス単のコピーも設計されました)。よく指摘されるのは、背景のチリチリがうるさいというものです。よく考えて後景を選ばないと見苦しい画になると言われています。多くのソフト・フォーカスのレンズは、対象から後ろへ奇麗にボケるように作っています。タンバールは逆に前に向かって奇麗にボケが出ます。
タンバールの光学設計図
タンバールで撮影した作品でおそらく最も有名なものは、1930年代に日本を代表する写真家・木村伊兵衛が沖縄へ旅行した時に撮影した「那覇の芸者」です。特徴としては対象が浮かび上がるということです。肖像用やキノ(映画)は、どのレンズも同様の特徴を指向しています。
木村伊兵衛「那覇の芸者」
写真は19世紀においてはどれほど鮮明だったのでしょうか。古い写真は今でも(オークションなどで買えば)手に入るので比較することはできますが、明晰さという一点だけに関しても玉石混交という状態でした。幾何学的な計算をせずに職人技でガラスを磨く古い方法と、計算をもとに入念に設計し精密に製造するやり方があり、徐々に後者が主流となり現在に至っていますが、この流れからコントラストが高くシャープな写真が撮れるレンズが生まれています。ボケにくく、周辺まで鮮明に写るレンズが優れているとされ、20世紀初頭の無声映画ではそのようなレンズが使われていました。(この時代の風景写真用レンズは息を呑むほど美しかったので、重宝されたのも納得です。)
しかし1910年代からソフトスタイルが導入され、ソフトフォーカスは元はスチール写真の撮影技法でしたが、主に人物のクローズアップで映画に取り入れられ使用されました。照明やレンズに絹、紗など様々な素材を掛け、ドライアイスでスモークを張ったり、フィルムの現像で低コントラストに仕上げる、さらには市販され始めたソフトフィルターを買うなどあらゆる方法が試されました。そしてまもなく専用機材 ソフトフォーカス専用レンズを作って効果を得る方法を探るようになっていきました。
専用レンズは、これまで映画撮影で行われてきたソフト効果を得るために考えられたあらゆる方法を凌ぐ特徴を備えていました。主像を明瞭に映し出せるというものです。専用レンズ以外の方法では画面全体がボケてしまうか、その問題を避けるにしてもスマートな方法ではありませんでしたが、ソフト専用レンズは、ヒロインを繊細な輪郭を失わずに柔らかく包み込むことができ、絞りを調整することによって被写界深度とボケ具合を変化させることができる、という利点がありました。人物と背景を奇麗に分離し、スクリーンに美しく浮かび上がる表情に人々の目を惹き付けるという目的がありました。これはソフト効果を利用するなら、専用レンズ以外では無理でした。
ということは、すでに20世紀の初頭からキノ用の軟調があったということになります。しかし市場には出ていません。個人による特注品と言われており、生産数は極めて少なく、おそらくハリウッド関係者のみが作っていたと思われるため、現代まで残っていないのは必然なのかもしれません。大判写真用の市販品はあったのですが、小型カメラ用はなく、そのためライツのマックス・ベレクが設計したタンバールは、歴史的に画期的なものだったと言えそうです。
30年代にタンバールが発売されて以降、ソフトフォーカスの分野はほとんど省みられなくなりました。映画撮影ではいろんなものが進歩してソフト専用レンズが使われなくなっていき、スチール撮影用にはソフトだけに専用のレンズを買うのは経済的に大変だったという事情があったと思います。やがて日本製の安価な製品が発売されるとソフトレンズも復活しましたが、それらは人物撮影用として意識されたものではなく、どちらかというと風景用だと思います。ベス単など日本にはソフトというと風景を撮影する伝統があるのでそういう方向のものが作られていったのかもしれません。
花影 S1の光学設計図
花影 S1の球面収差図
タンバールに刻印された2種のf値
木村伊兵衛「那覇の市場」
花影 S1の鏡胴設計図
2016年、ライカ社がズマロン28mmf5.6を復刻しましたが、2017年はタンバールでした。