ベレクがトリプレットからすべてのガラスを貼り合わせ色消しにした「ヘクトール Hector」は3つほど特許が出願されています。そのうち、1番目のものは50mm f2.5、2番目のものは73mm f1.9(パテントではf1.8)として実際に販売されました。そこで3つ目のものなのですが、少し暗くなって73mm f2です。肖像用のレンズなのでそれほど売れなかったことでこの改良型は生産されることはなかったようです。しかし最も優れているように見えます (独特許 DE585456)。
これをf1.9に変更すると球面収差がアンダー方向に突っ込まれます。-1.5mmですから大き過ぎます。このような収差配置であればガウスの方が適していたと思われ、その方が自然ですが、外観は大きく重くなります。
このレンズはもう一つ重要な特徴があります。2番目の設計だった73mm f1.9も確認します (独特許 DE526308)。これは実際に販売されていたものです。
f1.8で指定されていますが製造面で限界、そのためf1.9で製品化したものと思われます。図はf1.9で出しています。ガラスの選定に特徴があり、すべて前クラウン後フリントの順に貼り合わせ、クラウンはいずれも同じSK15 (以下すべてショット社)です。フリントはF2,LF6,LLF2と順に屈折率、分散が低くなっています。それが下図左です。その右に示している3枚のガラスはダゴールです。このようなガラスの選び方はダゴールを参考にしたものと考えられます。しかしダゴールの場合はこの3枚貼り合わせを向かい合う対にしているので、徐々に下げて徐々に戻していることになります。ヘクトールは下げたままです。しかしこのことによって、あの繊細な表現が生み出されたのだろうと言われています。優しい表現になります。
製造されなかったヘクトールでは、これをやめて6枚の内、前と後の2枚にクラウン、中は全部フリントガラスに変えています。中をフリントで固めると逆光性能は高まった筈です。73mmはフレアが出ると言われていますが、もう一方のこちらであればコーティングをしなくても対策できたと思われます。ダゴールはクラウンに薄いフリントにクラウンです。逆光は弱いです。フリントは昔は(今でもありますが)主に鉛を混入して不純物を含めています。表現も実際の重量も重くなります。ダゴールは6枚なのですっきりと光を通したかったのだと思います。それでフリントのプレゼンスを下げ、大判レンズですから重くならないようにも配慮しています。ヘクトールも6枚でさらに空気とガラスの境界も増えています。それなのにフリントで中身を固めています。重厚感のある表現になりそうです。ですから未製造の方はだいぶん印象が違う筈です。
吉田正太郎著「カメラマンのための写真レンズの科学」3章を見ますと、製品化されたヘクトール 73mmの歪曲について説明しています。焦点距離73mmは半画角は16.8度です。おもに人像写真に使われたヘクトールF1.9では、半画角17° あたりで糸巻型歪曲がピークに達しますが、画面周辺ではまた歪曲が少なくなるように設計してあります。17度は画面の端になりますが、イメージサークルがもっと大きいということで、さらに追跡したようです。そこでこれも確認しましたが、17度以上では潰れてしまいます。もはやこれで限界で、ここからさらに広げていくと計測不能になっていきます。しかしそこを強引にギリギリを攻めていくと確かに歪曲の曲線はゼロに戻る傾向があります。こういう設計は名レンズが多いので、それで指摘したものと思います。そのままどんどん離れていくのは魅力がないレンズが多いです。カーブしているのが良いものが多いです。それでずっと先まで辿って見ていくのだと思います。
製造されなかった方が優秀だと思いますが、ちょっと暗いので採用しなかったのかもしれません。球面収差の独特のカーブは傾向としてはどちらも同じで、この特徴は維持していますし、それはズマレックスでも同様でした。
一応、50mm f2.5も確認します (独特許 DE526307)。これはいささか不完全な印象がありますが大筋では傾向は同じです。球面収差をマイナスに突っ込んでいます。
同じ特許の中に、f8の設計もあります。ヘクトールは28mmがありますが、このような設計ではありませんし、28mmはf6.3あります。f8の画角は56度しかなく、焦点距離では40mm程です。そのため40mmで図を出しています。広角ならこのようになるという例と思います。
エルマリート Elmalit 90mm f2.8の設計もあります (独特許 DE1023607、米特許 US2995980)。これは90mmのまま出図していますので、50mm換算では収差は図より半分ぐらいになります。収差を減らす方向ではありますが、時代が変わっても頑なに基本的な収差配置を保っていることがわかります。
テレ・エルマー Tele Elmar 135mm f4です (独特許 DE1183707)。50mmで出図、50mm相当での収差になっています。
光学機器は高価なので、汎用のレンズを選んでそれだけで何でも撮影するというのがどうしても一般的になりますから、肖像用の用途に限定されたレンズはとても贅沢です。ライカでもへクトール73mmやタンバール90mmはあまり売れなかったので、これ以降、肖像用に特化したようなレンズは作られなくなっていったように思います。癖玉は使い手を選ぶし、使えないレンズと思ったら有名な写真家がそれを使ってどんどん傑作を撮るということもありますけれど、そういうことが特殊なレンズという評価になってしまい、ネガティブな印象を持たれがちです。特殊というとマウントエルマー105mmもそうかもしれません。癖玉ではないですが用途は限定されていますし、これだったら90mmで問題ないと大概の人が考えますのでなかなか受け入れられません。人類の大多数は山には頻繁に登っていない筈です。そういう経緯があったからなのか、次に設計された中望遠はズマレックス 85mmになりエルマーとの比較で口径を二段編成にして汎用だけのラインナップにする、その上で大口径は肖像用も兼ねるという方向になってしまったのかもしれません。そこで幻の第三のへクトールですが、これを販売することが市場から許されていたら、それでも二段編成の流れにはなっていたと思いますが、過渡期の作品として意義深いものがあったように思います。大口径という程ではないので取り回しも良いし大口径で得られるボケ味もありますから、この方が受け入れられやすかったような気がしないでもありません。
戻る