ドイツのベルリンは欧州で最も魅力ある都市の1つです。それゆえ、ドイツ国内の幾つもの都市で光学関係のものが作られてきてそれぞれに独自の風格を宿していても、やはりベルリンのものはゲルマンを代表するものであるし特別な求心力もあります。光学の黎明期以降、ベルリンを代表してきたのはゲルツ Goerzで、1926年にツァイス・イコン Zeiss Ikonとして合併して消滅した頃(米ゲルツはしばらく存続)、1922年に設立されたアストロ・ベルリン Astro Berlinが系譜を引き継ぎました。そしてクライツナッハに移転する前のシュナイダー Schneiderがかつてベルリンに本社を置いて、そのシュナイダーが現在ライカのほとんどのレンズの設計を行っています。この経緯はベルリン派の強烈な求心力を考えれば何ら驚くことではありません。ドイツが大戦に敗れた時、まずソ連がドイツの最良の光学資産を持ち出しました。その後、米軍がやってきて残りの優れたものを西ドイツに移しました。しかし魅力ある製品を生み出したのは、良いものが何も残っていない筈の東ドイツでした。人的資源は確かに重要なのですが、それよりも環境なのではないか、置かれた環境によって仕事の質も変わるのではないかということです。ベルリンの環境がゲルマン的な何かをもたらすのではないか、それは光学会社が変わっても、人が入れ替わり時代が変わっても変わることのないものなのかもしれません。
人材が重要であることも確かです。しかし長く一緒にやっている筈の社内でも人事評価は難しいもので、真に価値がある人材が流出することはありがちなことです。26年大合併の際にもツァイス・イコンが雇用したゲルツの設計師はロバート・リヒター Robert Richter (ハイパーゴン Hypergonで有名) だけに留まり、後の米コダックの名設計師 ウィリー・シャーデ Willy Schadeは解雇、ワルター・ショッケ Walter Zschokkeはスイス・ケルン Kernに移るなど人員整理がされています。ツァイス・イコンの統合は事業のリストラ策ですから、旧ゲルツ・ベルリン工場の職人の中にも職を失った人はいただろうと思います。そういうローカル職人はアストロ・ベルリンが受け皿になっただろうし、そのことによって米国育ちのビーリケやインド人のグラマツキといったアストロ幹部がゲルマンの何たるかを吸収する伏線になったという可能性は大いにあります。また一時期、ベルリンに本社を置いていたシュナイダーも同じ恩恵に与っていたと思われます。確かにシュナイダーは世界最高の技術と天才設計師集団で光学界をリードする存在でしたが、文化や伝統はベルリン時代に獲得し得たのだろうと思います。ここが自分たちで伝統を築き上げてきたツァイスやライカとの違いにもなっています。シュナイダーがベルリン派の"玉璽"を保有していることは世界のほとんどの人が知りませんが、そのことによって、しかも知られていないにも関わらず、つまり黄金や紅の衣服ではなく、白無垢のトーガを身に付けているに過ぎない、権威的な飾りを一切身に付けていない彼らが激動の歴史を生き残ってきたのは、実に偉大な伝統の継承によるものなのは間違いありません。
そこで話をそのベルリン派の原典たるゲルツに戻しますが、カール・パウル・ゲルツ Carl Paul Goerzが"ベルリン王の玉璽"を見いだすことができたのは、当時若干27歳に過ぎなかった青年を宰相に迎えたからでした。その気鋭の設計師は後に傑作とされるダゴール Dagorの設計図を携えていました。
このダゴールこそがゲルツの王としての権威を全欧州に示すものでした。言い伝えによると、フーフはダゴールの設計図をまずツァイスに持ち込み、門前払いを喰らったのでゲルツの門を敲いたと言われています。もしゲルツではなくツァイスがダゴールの設計図を手に入れていれば? それは全く違ったものになったであろうと想像されます。フォクトレンダーのハーテングによるヘリアーも描写の点ではダゴールに近いものがありましたが、こちらは成功しなかったと言われています。しかし後代に日本人の手にかかって内部に秘めたる魔法を解き放ちました。フォクトレンダーもツァイスと同様、高い光学技術で運営されてきた会社で民族性のようなものとはあまり関係ありません。それはトロニエのシュナイダー時代の製品とフォクトレンダー時代のそれを比較すればわかります。フォクトレンダーがツァイスに買収されたのはトロニエ在籍時だった筈です。フォクトレンダーは起死回生策でトロニエ獲得も結局は身売りとなりました。天才もどのような土台の基で働くかで輝きが変わってきます。それではツァイスはどうでしょう? ダゴールの成功を見てすぐにコピーし、プロターとして販売したのでその結果を見ればこれも明らかです。フーフがツァイスに行って凡庸に埋もれていれば歴史は変わっていたと思います。所属先を吟味しないと輝けない、フーフの設計は器に過ぎず、しかしゲルツは最良の器を求めていた、その融合によって今日我々が知るダゴールが産み出されたということでしょう。
ダゴールはしっかり貼り合わせを重ねた、密な構造になっていますが、コーティングがなかった時代には損失率を下げるために有効な処置でした。しかしコーティングが実用化されるようになってからは、貼り合わせを多用するコスト高な方法は避ける方が好ましい流れになってきました。そこで3枚のところを2枚にして独立させたのがダイアーリト Dyrlit型でした。もうコーティング前からやっているものもあるようで、それぐらいダゴールは製造面でコスト高なレンズだったのだろうと思います。ゲルツはこの新型にセロール Celorと命名しました。
セロールもダゴールと同じような個性を宿したレンズでした。ダゴールの割とはっきりわかる特徴は後ボケのチリチリで、これにしっとりした写りが持ち味、セロールはそこを少し薄味にしたような感じがありました。ダゴールは1892年、セロールは1896年、その反動からか1904年にパンター Pantarという逆戻り的な4枚貼り合わせの対称形、そしてついに1913年にドグマー Dogmarに至ります。しかし構成はセロールとほとんど違いはありません。このことについて仏トラオレの設計書に説明が書いてあり、コマ収差を大幅に改善している点に違いがあるとあります。これによってダゴール系列からチリチリが駆逐されました。現代の我々はダゴールの味を評価しますが、しかしゲルツは消滅するまで、まずはとことん優秀性を追求していた会社だったという若干の矛盾があります。その上でレンズをどれぐらい重ねるかによって描写の厚みを吟味していました。トリプレット型のポートレート・ハイパーは、キノ・ハイパーとして前群3枚重ねのダゴール的な構成でこってり感を出していました。描写の傾向を例えると、化粧品会社の広告の真っ赤なプリプリの唇とか、そういうのをもっと上品にしたイメージです。そうするとドグマーは貼り合わせ無しの4枚ですから、重厚に重ねてゆくダゴールやキノ・ハイパーとは違います。しかしゲルツの考え方では貼り合わせを解消したダゴールとしてドグマーの開発に至っています。この2つの方向性は別々に発展してゆきます。f4.5とたいへん暗いレンズでしたのでさらに改良を進められたことから、ゲルツはこのレンズになお可能性を見いだしていたのは間違いないところです。そしてついにf2に到達したのは1921年でした (独特許 DE396359、米特許 US1474743)。焦点距離は60mmで出図しています。
対称形が崩れてスピーディック Speedic型のようになっています。しかしスピーディック型は英国の発明(1924年)でトリプレットの派生型(パン・タッカーも1924年)、ゲルツのドグマー(1921年)とは由来が異なります。トリプレットとダゴールではぜんぜん違いますが、行き着いた結果は同じようなものであったという事実はたいへん興味深いと思います。しかしこの両者はステラー(1913年)からヒントを得たのは間違いないと思います。そしてステラーはウナー(1899年)であった可能性もあります (従来認識されてきた歴史に疑問を投ずるつもりはありません。設計師は当時のものは全部わかっていて、その上で新しいものを作っている筈なので、ご本人たちは設計の家系図のような概念はおそらく持っていないのではないかと思います。だけど系譜は確かにあるでしょうね)。アストロ・ベルリンはドグマーがなければパン・タッカーを作らなかったかもしれません(収差配置が似ている)。そしてそれはダゴールの影を帯びた新しいベルリン派のシンボルになっていきました。
ダゴール派生型のドグマーにf2、ハイパーはトリプレットにf3、エルノスター型のシネゴールはf1.9、シネゴールはf2で実際に供給されていました。いずれも肖像キノ系です。
ドグマー f4.5は実際に販売されていて、その広告を下に貼っていますがゲルツ・アメリカの広告なので「シネ・ドグマー」となります。ゲルツ・アメリカのレンズ構成はまた違うのでしょうけれども明るさより性能というところは徹底しています。ゲルツはなんでこうも暗いのでしょうね。
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