古代中国に桃源郷伝説があります。ある漁師が川を遡って漁をしていると両岸が桃の木に変わったので上陸してさらに進んでいくと世間から隔絶された平和な土地が見つかり、住民から歓迎されもてなしを受けて帰るともう二度とそこへ行くことはできなくなった、というものです。興味深いのはこの物語を著した陶淵明自身や後の時代の多くの詩人たちが神話や伝説を否定していたということです。それなのに、なぜこういう題材を想像したり使ったりするのでしょうか。それは世の中があまりにも混乱していたので、幸せを見いだすための空想の世界を描き、それを基に啓発的な詩作を行うためだったとされています。そして桃源郷は自分の心の中にこそあると。
しかし、桃源郷が空想なのは認め難いと考える人もいました。清代の支配者たちは自分たちの力で豪華な庭園を作り 、その中に桃源郷を表す絵画も掲示させています。
「桃花源」 頤和園 長廊、北京 中国
写真は絵画に代わるものという側面もあったのですが、しかし写真は実際にあるものしか撮影できませんでしたから空想ではありませんでした。後に映像の分野でCGというものが出てきましたが、それまでは現実をそのまま写していました。しかしそれでも写ったものに夢を見たいというのは概念としていつの時代にもあった筈です。現実を超えた画を印画紙上に見たい、空想の世界をなんとか表現できないか、"桃源郷を見たい"のだと、レンズの設計者の中にも"桃源郷"を探していた風な人がいたのは、撮影師にとって見逃すことのできない点です。まず最初に想起されるのはライツ Leitz社のマックス・ベレク Max Berekで、彼のレンズは現実を超えている点で「桃源郷志向的」だと言えます。そして彼がライカ Leicaのためにより明るいレンズを求めた時に自身が設計することができず、当時シュナイダー Schneiderに在籍していたトロニエ(Albrecht Wilhelm Tronnier 1902~1982)によるクセノン Xenonが採用されたのはよく選定されてのことだったと思います。なぜならトロニエによって設計されたこのレンズも「桃源郷志向的」だと言えるからです。
トロニエの設計したレンズは、戦前のものとしてはこのライカのクセノンが有名とはいえ、必ずしも代表的なものとは言い難いということもあるので、まずはここでトロニエ設計の主な写真用レンズを時代ごとにリストして整理します。
リスト中、戦中イスコ時代の軍用レンズを省けば、おおまかに戦前と戦後に分けられますが、シュナイダー、フォクトレンダー両社の風格を代表するレンズを設計していながら、どちらも違った評価がされている点は注目できます。思うにこの個性はトロニエ自身のものではないような気がします。別の言い方をするとトロニエは設計チームの中で計算専門という位置づけだったのではないかという感じがするのです。つまり試作を作ったら最終的に意思決定する人物が別にいたということですが、その人物の影響力と実際に計算するチームの決定権のバランスがレンズ毎に違っている場合、結果も必然的に異なったものになってきます。
そこでトロニエ氏優勢と思われるレンズを見ていくと例えば戦前ではクセノン Xenon f2のもの、戦後ではツァイス/フォクトレンダーのウルトロン Ultronですが、これらのレンズの特徴を表すとなるとたいへん難しく、単純に非常に優秀なレンズとしか言い様がないような気がします。戦前のクセノンはコダック・レチナに付けられ、戦後のウルトロンはローライブランドのカメラに取り付けられたものが結構市場に出回っていますが、いずれも安価で評価は低迷しています。非常に優秀ですが愛好家の興味を引付ける要素はないからだろうと思います。これはチーフが明確に存在しなかったことでトロニエの決定自由度が増し、理詰めのみで追求可能だったからだろうと思います。
トロニエの肖像
シュナイダーにしろ、戦後のフォクトレンダーにしても底辺に流れる芯の部分はトロニエの存在に影響されていないようにみえます。トロニエがいなくなってもシュナイダーレンズの風格は変わっておらず、ウィーン創業のフォクトレンダーは時代を経ても、ドイツに本社を移転した後も、そしてトロニエ入社後もその貴族的な輝きを失うことはありませんでした。トロニエが計算に特化することで、どのような個性のチームとも共同作業が可能だった、そしてトロニエという稀代の数学者の存在がなければ、シュナイダーもフォクトレンダーも大きな成功を収めることはなかった筈です。
こういう環境の中でトロニエの影響力が比較的小さなプロジェクトになったと思われる例として、戦前ではライカ・クセノン、戦後ではノクトン Noktonがあります。これらは大口径レンズとして設計が難しいタイプのものですがそれゆえ、光学特性を追い込んでいった時にあちらが立てばこちらが立たず的な全体をきっちり補正するのが難しい部分が出てきます。その時に何を捨てて何を取るかは理詰めでわかる事柄ではないので、トロニエがそこでどのように適切な選択を導くのか結論を出せなければ、最終決定に及ぼす影響は限定的になります。クセノンにしてもコダックへのf2とライツへのf1.5はあまりに違い過ぎるように思います。そして58年にライツへ供給されたスーパーアンギュロン SuperAngulon 21mm f4は35年にライツへ供給されたクセノンと描写の傾向が似通っていますが、トロニエはアンギュロンの元の設計者であったとはいえ、この時にはすでにシュナイダーを離れて20年以上も経っています。同じ大口径を作るにしてもフォクトレンダー在籍時のノクトンはまた違います。時代が違いますのでトロニエ自身の変化という考え方もできないことはありませんが、彼の考えは初期のクセナーからカラーウルトロンに至るまであまり変化していないように見受けられますから大口径に関してのみ考えが変化しているのは不自然です。ノクトンもトロニエの作品というよりはフォクトレンダー固有の風格を備えていると考えるのが妥当と思われます。
そしてクセノンですが、この銘はシュナイダー社のものですから、トロニエ移籍後も新レンズに採用されていました。多くの一眼レフカメラに供給されたクセノン Xenon 50mm f1.9は、トロニエ以外の人物によって見直しがなされ、当時も今でもトロニエのf2よりも評価されています。市場の価格も2、3倍違います。拘ったレンズの選定を行っていたことで知られるアルパレンズのラインナップにもリストされているのはf1.9の方です。しかもアンジェニューが標準レンズから外れ、スウィターが登場した後も供給し続けています。この一点だけでもどれだけ凄いかがわかります。
トロニエが最初に設計したクセノンは1925年のもので、量産されるようになったのは1934年です。こうして長期間にわたって練り上げられたクセノンはガウス型の構成に手を加えたもので、前群の貼り合わせを分離したものでした。ガウス型から一歩進んだ先進的な設計でしたが、ガウス型のツァイス Zeiss ビオター Biotarより評価を得る事ができず、売り上げは散々なものだったようです。唯一、ドイツ・コダックが販売してヒットしたレチナ Retinaの成功に便乗する形で売られたものが多数出回ったに過ぎませんでした。60年代に販売された新型クセノン Xenon(本稿で見ていただくもの)は普通のガウス型に戻されたものでした。しかしトロニエはフォクトレンダー Voigtranderに移籍した後、失敗した筈だったクセノンをもう一度使い、ウルトロンと命名して販売しました。よほど自信があったのかもしれません。ウルトロン型は現行のニッコール Nikkor 50mm f1.8Dに採用されています。
クセノン Xenon 50mm f1.9は、北京・望京の東側、大山子にあります「798芸術区」で撮影しました。
このレンズですぐに思ったのは、色彩がパステル調になるということです。かといって色褪せるということはなくバランスよく表現します。この特徴はライカのズマリットに似ているような気がします。ズマリットはクセノン f1.5のコピーです。両者は味が少し異なりますが、共通するのものはあると思います。あるいは個体差であって実際には同じものなのでしょう。これはf1.9で戦後のレンズですが、それでも共通点を維持しています。大口径のボケ玉は魅力有りますが、そこを少し抑えたf1.9というのも品があって良いものです。
例えばこのように濃い赤もしっかり再現しますが、いささか淡い感じも残っているという不思議な効果です。
色彩感と有るか無いかという微妙なところで残されているフレアの調和が見事です。フレアの扱いはライツに通じるものがありますが、それとも少し違うような気がします。
変な人形の多いエリアです。社会風刺が含まれているものもあるようですが、説明を求めたいぐらい意味不明なものもあります。やはり色が秀逸で、青系でも本質が変わることはありません。
収差は映画用のレンズを参考にした足し方をしているようです。ポートレートでの用途でも十分に満足できそうです。
芸術区全体は撮影するにはちょうど良いところのようで、結婚記念撮影の業者が複数あります。実際に撮影しているところもそこら中で見かけられます。こういう用途でこのレンズは相性が良さそうです。桃源郷的発色ですから。
合焦点の浮かび上がり方がとても良い感じです。全体的に主張を控えた上品な感じがあります。
背景のボケは距離と光の量によってキャラクターが変わります。遠くなるに従って、そして光量を増してくると硬さが目立ってきますがこれも良い印象があります。
光が強く当たっても安定的なレンズは古いものには少ないですが、これは問題有りません。光のキツさを穏やかに吸収する特徴が素晴らしいと思います。立体感のあるボケも見事です。
右上の枝に注目したいのですが、山水画のような描かれ方をしています。このボケの作り方が画に品が漂う秘密なのかもしれません。
背景に硬いチリチリした収差が見て取れます。しかし流れていないので、煩わしさはありません。これはでも、ポートレートには使いにくいボケ方です。人物がメインの時はこのボケが出ないように留意した方が良さそうです。
一定の距離を空けると上品なフレアを纏うようになり、ボケも率直になっていくようです。前ボケは引き締まっています。これが合焦点を引き立てる効果は意外と大きいように思います。
遠景、というほど遠くもないですが、遠距離を開放で撮影した場合は安定感があります。
中景、というのもどこからどこまでかはっきりしませんが、やはりフレア気味になります。近いものと遠いものははっきりするようです。こういう設計はおもしろいと思います。1つの理想を示しているような気がします。
西日が壁に当たり、表面のディテールが潰れ気味になりながらも、はっきりしない部分とそうでない部分のなだらかな移ろいが一歩引いた身のこなしで表現されている感じがします。少々甘い描写の対象物に対して手前の石畳は強いコントラストを帯びて、画面全体の印象を引き締まったものにしています。
硬いボケは背景に現れることもあるようです。少しチリチリしていますので、焦点を引付けるとこのボケが出るようです。こういう作画の場合は使えるボケです。焦点と背景の距離が空き過ぎるといささかしつこいかもしれません。
これは焦点も背景も先ほどよりも離した画です。これぐらいの方が自然な感じがします。ポートレートであれば、これぐらいがいいかもしれません。
できるだけ寄って撮影してみた画です。背景のボケは相当乱れていますが、素材がシンプルゆえ、それもあまり目立っていません。この乱れ方にも色気があって良いと思います。
クセノンにトロニエ的要素を見いだすなら、こういう画になるような気がします。まるで広告写真です。広告は文字を入れるので実際にはこういう構図にはなりませんが、写りから受ける印象は広告的です。一切画像に加工を加えていなくてもこうなるのは驚きです。色彩感とボケの取り方がいずれも微妙なところを突いていて関心させられます。フォクトレンダーは冷たく金属的でこれもまた良いのですが、シュナイダーは暖かみがあります。
シュナイダーレンズから全体的に受ける印象は、紫が強そうだということです。全体的に落ち着いて品がありますが、紫を見ると色気を出す風な振る舞いを見せます。これが高貴な印象を与える理由だとされています。ツァイスは赤を重視して華麗に、シュタインハイルは藍色に対して反応して優雅な印象を残すとされています。ここに優劣はありませんが、ただ特定の色を強調したというに留まらず、そこには哲学の相違すら感じられます。デジタルに対して相性が良いのは紫だと言われています。