無一居

空想のレンズを作ってしまう「むいちきょ」
紀元2012年1月創業

ダゴールの最終進化形 幻のドグマー
「湖楼」X4 50mm f2.0

2015.11.22

 ドイツのベルリンは欧州で最も魅力ある都市の1つです。それゆえ、ドイツ国内の幾つもの都市で光学関係のものが作られてきてそれぞれに独自の風格を宿していても、やはりベルリンの風格はゲルマンを代表するものであるし、特別な求心力があります。光学の黎明期以降、ベルリンを代表してきたのはゲルツ Goerzで、1926年にツァイス・イコン Zeiss Ikonとして合併して消滅した頃、1922年に設立されたアストロ・ベルリン Astro Berlinが系譜を引き継ぎました。そしてクライツナッハに移転する前のシュナイダー Schneiderがかつてベルリンに本社を置いていて、そのシュナイダーが現在ライカのほとんどのレンズの設計を行っています。この経緯はベルリン派の強烈な求心力を考えれば何ら驚くことではありません。この系譜の引き継ぎは、どういうことを意味しているのでしょうか。ドイツが大戦に破れた時、まずソ連が侵攻してきてドイツの最良の光学資産を持ち出しました。その後、米軍がやってきて残りの優れたものを西ドイツに移しました。その結果産み出された製品が最も優れていたのは、良いものが何も残っていない筈の東ドイツでした。これは結局、物とか幹部の偉い人とかそういうものではなく、普通のローカル職人が重要だったらしいということなのだろうと思います。大きな組織というのは意外と仕事ができない人が出世してあたかも優秀であるかのような状態になっていることが多い、できる人を出世させると代わりがたいへんだし、本人が仕事ができても指導監督は別問題だからとか、いろんな事情があります。すごく単純にこの現象を説明すると結局は人当たりがどれぐらい良いのかといったようなこと、世渡りとか人間関係の問題になるので、仕事しかできないような人間は割と簡単に切られる、この問題は世界の経営者を悩ませていますが、そのことによって真に価値がある人材が流出することはありがちなことです。おそらくこれと同じ現象がゲルツの合併の際にも発生したと思われます。ツァイス・イコンが雇用したゲルツの設計師はロバート・リヒター Robert Richter (ハイパーゴン Hypergonで有名) だけに留まり、後に米コダックの名設計師になるウィリー・シャーデ Willy Schadeは解雇されているなど人員整理がされています。ツァイス・イコンの統合は事業のリストラ策ですから、旧ゲルツ・ベルリン工場の職人の中にも職を失った人はいただろうと思います。そういう重要なローカル職人はアストロ・ベルリンが受け皿になっただろうし、そのことによって米国育ちのビーリケやインド人のグラマツキといったアストロ幹部がゲルマンの何たるかを吸収する伏線になったという可能性は大いにあります。また一時期、ベルリンに本社を置いていたシュナイダーも同じ恩恵に与っていたと思われます。確かにシュナイダーは世界最高の技術と天才設計師集団で光学界をリードする存在でしたが、彼らに欠けていた文化や伝統はベルリン時代についに獲得し得たのだろうと思います。おそらく意図的な動きです。そうでないとわざわざ本社の移転はやらないと思います。これは国家の首都移転に準ずる程たいへんなことです。ここが、自分たちで伝統を築き上げてきたツァイスとの大きな違いで、それがライカとの違いになっている、そしてベレク個人の個性に頼っていたライツは結局シュナイダーの援助を受けています。それぞれの会社に勤務しておられる方もいらっしゃると思うので、気分を害される方もおられるかもしれませんが、ここで言っているのはもう亡くなった人たちがしたことですから、今の我々には今置かれた立場で今できることは何かを探っていくしかないと思います。伝統は光学だけではない、いろんな分野が複雑に絡み合う渾然一体となったものであって、その継承は王冠や玉璽の獲得に匹敵する大事業です。本社を移さねばならないぐらいの。そして従業員を文化人にするにはいろんな意味で余裕が必要です。経済力と人材も重要ですがそれらは伝統より下位であるということです。経済の状況は様々に変化、光学界においては安い日本製の猛攻を受けたということがありましたし、時代によって人材の枯渇という浮き沈みもあります。シュナイダーがベルリン派の玉璽を保有していることは世界のほとんどの人が知りませんが、そのことによって、しかも誰にも知られていないにも関わらず、つまり黄金や紅の衣服ではなく、白無垢のトーガを身に付けているに過ぎない、権威的な飾りを一切身に付けていない彼らが激動の歴史を生き残ってきたのは、金融界とのパイプやトロニエ二世の出現によるのではなく、実に偉大な伝統の継承によるものなのです。

 そこで話をそのベルリン派の原典たるゲルツに戻しますが、カール・パウル・ゲルツ Carl Paul Goerzがベルリン王の玉璽を見いだすことができたのは、当時若干27歳に過ぎなかった青年を宰相に迎えたからでした。その気鋭の設計師は後に傑作とされるダゴール Dagorの設計図を携えていました (筆のタッチを写真で表現する ダゴール「朦月」D1参照)。

ダゴール型
 このダゴールこそがゲルツの王としての権威を全欧州に示すものでした。言い伝えによると、フーフはダゴールの設計図をまずツァイスに持ち込み、門前払いを喰らったのでゲルツの門を敲いたと言われています。もしゲルツではなくツァイスがダゴールの設計図を手に入れていれば? それは全く違ったものになったであろうと想像されます。フォクトレンダーのハーテングによるヘリアーも描写の点ではダゴールに近いものがありましたが、こちらは成功し切れなかったと言われています。駄作とか言われていますが、後代に日本人の手にかかって内部に秘めたる魔法を解き放ちました。フォクトレンダーもツァイスと同様、光学的伝統しか持ち合わせていない会社です。これがどういうことなのか、トロニエのシュナイダー時代の製品とフォクトレンダー時代のそれを比較すればわかります。フォクトレンダーがツァイスに買収されたのはトロニエ在籍時だった筈です。起死回生策でトロニエ獲得も結局は身売りとなりました。天才もどのような土台の基で働くかで輝きが変わってきます。それではツァイスはどうなのか? ダゴールの成功を見てすぐにコピーし、プロターとして販売したのでその結果を見ればこれも明らかです。フーフがツァイスに行って埋もれていれば歴史は変わっていたと思います。所属先を吟味しないと輝けない、フーフの設計は器に過ぎず、しかしゲルツは最良の器を求めていた、その科学的融合によって今日我々が知るダゴールが産み出されたのだと思います。

 ダゴールはしっかり貼り合わせを重ねた、密な構造になっていますが、コーティングがなかった時代には損失率を下げるために有効な処置でした。しかしコーティングが実用化されるようになってからは、貼り合わせを多用するコスト高な方法は避ける方が好ましい流れになってきました。そこで3枚のところを2枚にして独立させたのがダイアーリト Dyrlit型でした。もうコーティング前からやっているものもあるようで、それぐらいダゴールは製造面でやっかいなレンズだったのだろうと思います。ゲルツはこの新型にセロール Celorと命名しました。

ダイアーリト型
 セロールもダゴールと同じような個性を宿した名レンズでした。割とはっきりわかる特徴は後ボケのチリチリで、これにしっとりした写りがダゴールの持ち味であって、セロールはそこを少し薄味にしたような感じがありました。ダゴールは1892年、セロールは1896年、1904年にパンター Pantarという逆戻り的な4枚貼り合わせの対称形、そしてついに1913年にドグマー Dogmarに至ります。しかし構成はセロールとほとんど違いはありません。このことについて仏トラオレの設計書に説明が書いてあり、コマ収差を大幅に改善している点に違いがあるとあります。これによってダゴール系列から完全にチリチリが駆逐されました。たいへん優秀なレンズになったので面白みはなくなったのでしょうか。しかしゲルツのトリプレット型・ハイパーなどチリチリは出ないが名レンズ、もう当時からかなり評価を受けていたものもあります。残念ながらハイパーのデータはないので確認できないのですが、3枚に減らしても十分なダゴール的、いやベルリン的こってり感はあります。化粧品会社の広告の真っ赤なプリプリの唇とか、そういうのをもっと上品にしたイメージです。そうするとドグマーは4枚ですし、近い感じは得られないか? という感じになってきます。ドグマーはf4.5とたいへん暗いレンズでしたのでさらに改良を進められたことからゲルツはこのレンズになお可能性を見いだしていたのは間違いないところです。そしてついにf2に到達したのは1921年でした (独特許 DE396359、米特許 US1474743)。この年式は見過ごすことができません。なぜなら、ツァイス・イコンへの合併が1926年、キノ・ハイパーがライカマウントでギリギリ間に合ったので1925年ぐらいまでには設計完了、おそらくその数年前、ということはキノ・ハイパーとドグマー f2はほぼ同時代の産物ということになるからです。

ドクマー f4.5の光学図
ドグマー f4.5の縦収差図
 まずf4.5のドグマーのデータがトラオレの本に載っていますのでそれを確認します。

ドグマー f2の光学図
ドグマー f2の縦収差図
 これがドグマー f2の出図です。対称形が崩れてスピーディック Speedic型になっています。しかしスピーディック型は英国の発明(1924年)でトリプレットの派生型と、ゲルツのドグマー(1921年)とは由来が異なります。トリプレットとダゴールではぜんぜん違いますが、行き着いた結果は同じようなものであったという事実はたいへん興味深いと思います。しかしこの両者はステラー(1913年)からヒントを得たのは間違いないと思います。そしてステラーはウナー(1899年)であった可能性もあります (注:これは従来認識されてきた歴史に疑問を投ずるために言っているわけではありません。何がオリジナルかといった不毛な議論に関わっていこうという意図はありません。伝統は引き継がれることによって新たな概念が生まれるということに着目するために順序を明らかにしたに過ぎません)。アストロ・ベルリンはドグマーがなければパン・タッカーを作らなかったかもしれません。そしてそれはダゴールの影を帯びた新しいベルリン派のシンボルになっていきました。

 しかしこのf2ドグマーは生産されていません。見つかってもプロトタイプとかほんの僅かであろうと思います。なぜならツァイス・イコン時代に入ってもドグマーはf4.5が生産されているからです。だけど同じドグマーでもf4.5とf2では使われる目的がぜんぜん違うもののような気がしますから或いはf2もあるのかもしれません。このスピーディック型に驚異的なf2、一方のキノ・ハイパーはトリプレットにしてはこれも驚異的に明るいf3でした。テッサーですら新種ガラスが出るまでf3.5だったところを3枚でf3です。どちらか選ばなければならなくなり、キノ・ハイパーで勝負するということになったのかもしれません。ハイパーは基本的に肖像用ですが、ドグマー f2は旧来の設計より、球面収差と色収差を足しています。よりぐっと魅力を増した、これはハイパーとの比較対抗のためであったと推察されます。しかしアストロはキノ用にトリプレットではなくスピーディックを採用しました。これぐらい判断が微妙なものであったのだろうということであれば、そしてハイパーのデータがないのであれば、在りし日のベルリン帝国の残光を伝えるものとしてドグマー f2のデータは極めて重要なものであると思います。

 そうすると、第一帝国ゲルツ、第二帝国アストロ・ベルリンの4枚組は出た、それでは第三はどうなのか・・やっていません。シュナイダーにはスピーディック型はないようです。エルノスターやダイアーリト型はあるのですが、スピーディックはありません。まあ、普通の会社はスピーディックは作らないので特に驚きではありませんが、これはダゴール以降、ベルリン派に連綿と続く伝統ですからね。これをカタログに加えていないというのは、彼らが権威的に戴冠する気がないということの表れなのでしょうか。もしスピーディックがあれば彼らがベルリン派であることは容易に明確になりますからね。しかしダイアーリトであれば作っているのです。意図的に避けていた可能性はあると思います。もう現代では過去のレンズ構成を踏襲しなくなってきているので、こうした過去の構成をいずれのものも採用することはないと思いますが。シュナイダーの現在の実力を考えれば十分に第三帝国の主を名乗る資格はある筈ですが、そうしない・・現実のドイツ第三帝国の末路が彼らの心理面に何らかの影響を与えているのでしょうか(2015年のアカデミー賞ノミネート10作品の内、6作品がライカ・ズミルックスCを使ったと言われています)。

戻る

無一居Creative Commons License
 Since 2012 空想のレンズを作ってしまう「無一居」 is licensed under a Creative Commons 表示 2.1 日本 License.