無一居

空想のレンズを作ってしまう「むいちきょ」
紀元2012年1月創業

四季の移ろいのような変化を見せる
エクスプレス「清麗」T1

2013.10.20

テッサー型に対して英国人が出した結論

 英ロス Ross社はロンドンで最も古参の光学会社で、独ツァイス Zeissの英国代理店も務めていました。そのため、ツァイスが開発したレンズはライセンス提供され自社で製造して英国国内で販売していました。1903年に発表されたテッサー Tessar (独特許 DE142294)もそうで、ツァイスのライセンスを明記した上でロスが製造販売していました。そうであれば、そのまま作っていれば良かろうと思うのですが、ライセンス料に不満があったのか、それとも自分たちでも開発したくなったのか理由は定かではありませんが、ともかく1913年にロスの2人の設計師 ジョン・スチュアート John Stuartとジョン・ウィリアム・ハッセルカス John William Hasselkusがテッサーを改良した1つのレンズを作りました。それは、エクスプレス Xpres (英特許 GB191329637)と命名されました。

 あまり優秀なレンズがなかった当時は、テッサーの鋭い描写が驚きをもって迎えられ「鷹の目」と呼ばれて重宝されていました。このようなタイプのレンズは、軍事的観点から見た場合、非常に重要ですから、第一次世界大戦前夜の当時、エクスプレスを開発しておいたのは英国にとってタイムリーだったと思えます。このレンズも開放から鋭利という評価で、事実、大戦中に航空写真を撮影するのに使われたと言われています。戦略的にかなり重要なものとして扱われたようです。

 とはいえ、エクスプレスが開発された当時は大戦が起きる気配はなかったし、大戦ではテッサーをそのまま使っても良かったと思うので、別の動機で新規開発された可能性が高いと思います。特許は20年有効と決まっていましたので、この時点ではまだ先10年はツァイスのライセンスが有効でした。そのためこの特許を回避するために、後群の貼り合わせを2枚から3枚に増やすことが多くの光学会社で試みられていました。ロスもこの方法を使ってエクスプレスを開発しました。そしてツァイスの特許が切れてから各社は貼り合わせを2枚に変更しました。エクスプレスも2枚になりました。

 特許は、f4.5とかなり暗いもので、オリジナルのテッサーに比べれば2倍になっているとは言え、現代の基準では相当低いスペックです。それでもテッサーはそのさらに倍のf3.5が限界で、新種ガラスを投入すればf2.8まで上げられるものの、せいぜいその程度の明るさしか実現できません。今から光学図と収差を確認します。

エクスプレスの光学図
 画像周辺の光量が減りそうですが、指定通りなのでとりあえずこのままいきます。

エクスプレスの設計値
 特徴としては、3枚重ねの部分で屈折率が順に上がってくるということかもしれません。特許を回避する目的の場合は3枚の内、2枚にほぼ同じ屈折率のガラスを持ってきますが、この例の場合は他と比べて少し差があるように思います。また3枚重ねの積極利用としては同じガラスで中央の異種ガラスを挟むというものがありますが (米特許 US1697670)それとも違います。これは独特の構造なのかもしれませんがしかし、中央のガラスを外しても特性に大きな影響を与えるということもありません。特性は同じだったとしても描写に全く影響がないとは思えません。ライツ Leitzの有名なレンズ ヘクトール Hektor 73mm f1.9はダブレット3段重ねのトリプレットでクラウンは全部同じ材料、フリントは徐々に屈折率と分散が低下するという、これも独特の構造になっています (独特許 DE526308)。もしかするとベレクはエクスプレスからヒントを得たのかもしれません。そうだとすると、この方法に一定の効果を確認していたということになります。

エクスプレスの特性値
 焦点距離は100mm、口径はf4.5です。

エクスプレスの収差図
エクスプレスの収差値
 収差配置は秀逸で品格がありそうです。球面収差がマイナスというのが英国調です。エクスプレスはテッサーの特許失効以降、仕様が2枚に戻されてから、ある中判カメラ用に供給されました。(絵画のような描写のレンズ2~3を参照下さい)フィルムサイズに応じて3種、供給されていました。特許と比較して明るさが向上していますが、開放からシャープなのは変わりません。当時の中判カメラには前玉を回転させることで距離を合わせる簡単な方法が主に使われていて、エクスプレスもそういう構造になっていました。この方法は収差移動があるので、全群移動に比べて性能が劣るとされています。事実、理論上はそうなのですが、これを逆手にとったようなロスの方法は興味深く、距離によって移動する収差が様々な表情の移り変わりを見せるようで非常に魅力があります。これは偶然発見されたのかもしれません。エクスプレスは収差の少ないレンズですが、その中に癖となる特徴は含んでいて、それがより近いものを撮った時に表面化して味わい深い作画になるようです。エクスプレス以外の前玉回転のレンズも無限遠では開放でも非常にシャープに撮れるように作っておいて、近いものを撮った時にあまり収差の影響に悩まされないように配慮しているのですが、それでもあまり良くないものが多いのは確かです。しかしエクスプレスは土台が良いのか、収差が出てきた時の方が良いし、開放であまり収差を出したくない場合では優秀なので、絞り調整を考えることなく全部開放で撮影できるというのは考えようによっては便利だと思うのです。開放で何でも撮って良しなので、考えないといけないことが減ります。結果が良ければそれでいいので、意義がないと思いつつも、一応収差の変化も確認しておきます。

エクスプレスの設計値
 これは先ほどの再掲ですが、間隔は前玉より前は∞、後ろは3.9mmとなっています。そこを∞から10,7,5,3,2,1mの順で順番に変えていき、その都度3.9mmの部分を動かして合焦するように見ていきます。クリックしますと拡大図ではなく、詳細な収差データが出ます。縮尺が変わっていく点だけご注意下さい。

エクスプレスの収差図∞

エクスプレスの収差図10m10m

エクスプレスの収差図7m7m

エクスプレスの収差図5m5m

エクスプレスの収差図3m3m

エクスプレスの収差図2m2m

エクスプレスの収差図1m1m

 もし前玉回転を廃止して全群繰り出しにしたらどうでしょうか。全部シャープに写ってしまってぜんぜん味わいがありません。問題点としては、エクスプレスは中望遠ばかりで短いものがなくいずれも用途を考えると長過ぎるということから、これを前玉繰り出し距離計連動で復刻したいものです。しかしスケールダウンしますとガラスが極端に薄くなり過ぎるということと、3枚貼り合わせの製造が困難です。口径も暗いのでもっと新しいデータがあると良いのですがこれがないということで諦めたいと思います。それだったら別のテッサーのデータを持ってくれば良さそうですが、ほとんどのテッサー型の前玉繰り出しは悪いのです。そもそもここで確認いただいたデータも1912年のものですから違うものだと思います。しかしまあ、こういうものもあるということで見ていただきました。

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