無一居

空想のレンズを作ってしまう「むいちきょ」
紀元2012年1月創業

無一居のレンズコーティングについての見解

コーティングの効果を再吟味してみる - 2012.06.14


 小サイトのコラム欄にはオールドレンズを多数掲載していて、製造された時代や文化背景が様々ですから色んなコーティング、有り無しも含めバリエーションが豊かです。順番にご覧いただきましたら、個人的な好みかどんなものかだんだん決まってくるかもしれません。しかしコーティングについてこのような角度から考えるのは非常識かもしれません。なぜなら、現代のレンズはすべてマルチコーティングが入っており、光の透過率がいかに優れているかメーカーが自社の優越性をデータや図まで駆使して説明しています。メーカーが説明するということは売り上げと関係があるということであり、消費者は最先端技術のコーティングに感銘を受けるということです。優れたコーティングは疑問の余地なく受け入れられています。

 そういう流れは大いに結構ですし、美しいコートを見てモチベーションが高まるならなおさらOKです。しかしそれが唯一の感性ではないため、別のバリエーションについても押さえておかなくてはいけません。なぜなら「無一居」では多くのオールドレンズを範としているからです。マルチコーティングはそれはそれで良いとしても単純にマルチ礼賛といくわけにはいかない事情があります。コーティングを入れてノンコートの効果を得るのは難しく、目的とぜんぜん違うレンズになってしまうことも有り得るからです。マルチは1つの選択肢に過ぎないということです。とはいえ、ここでの目的は何か1つの結論を出すことではありません。レンズ構成によってはある方法は使えないということがあり、ある文化圏のレンズの味わいを重視する場合は、個人の好み以前に何のコートを使うか決まっている場合があるからです。そういうことから、色んなコーティングパターンとその特徴について把握しておきたいと思います。

 ガラスは1枚使うと必ず面が2箇所発生します。写真レンズは最低でも2面以上の面が生じます。必ず最低1枚のガラスは使うからです。(例外はピンホールレンズです。)この面とは空気からガラスへ、ガラスから空気へと至る境目を指します。ここで光がロスするとされており、その量は4%です。収差補正が可能な最低の構成枚数とされている3枚玉トリプレットであれば、6面の通過があり、各々で4%消費します。計算しますと通過後の光の量は78.28%となります。凄い消費量です。絞りで言うと半絞りぐらい違ってきます。光学設計で半絞り稼ごうと思えばたいへんです。こういう状況であれば、透過率ほぼ100%のコートが大いに称揚されるのは当然です。しかもコートがなければレンズの枚数も増やせず、たいへん窮屈です。古典レンズの領域から抜け出せません。盛大なフレアやゴーストの影響から逃れるのも難しく悪いことだらけです。写真にとって光とは大切な情報です。それを大幅に捨てているとあっては見過ごすことはできません。

Goerzの広告
1905年の古いゲルツ Goerzの広告です。ドイツ人はコーティング実用化以前に透過率99%を達成していたのでしょうか。単玉でも99%は有り得ないのですが・・・。この時代は(現代でもそうかもしれませんが)過大表示が使われ、購入者がわからなければ何を言っても問題ないという考えが大企業にもあったようです。この同じ理由で古いレンズのf値をすぐに信用することはできません。実際、消費者は透過率を気にする事はないと思いますが、クリアに写るかどうかは気にしますので結局そういうことを言いたかったのだと思います。しかし100%と言い切らなかったのは、堅実なドイツ人らしいと思います。ラテン人であれば実際90以下のところをノリで100まで持っていき、客と一緒に盛り上がっていたと思います。

 しかしそれは光学理論であって、人間の感性はそれよりはるかに複雑です。産業用のレンズは特性上完璧に近いかもしれませんが、写真用に転用しても嫌われます。硬くて味気ないからです。それでも光学特性の重要性が軽視されることはありません。特性が優れていないと写真はきちんと写りません。何を重視すればいいのでしょうか? その回答は無限にあります。いろんなこだわりがあります。歴史上、名を成した設計師たちは1つの回答を示し、それによって人々を心酔させてきました。そして人々は別の回答にも魅了されていきました。その過程でコーティングは絶対に必要だったでしょうか? いいえ、決してそんなことはありません。そうであれば、ノンコートによって失った光とは何なのでしょうか?

 自然界にある真に美しいものは、多くのものが否定されています。自然界は極めて精巧であって、その緻密さはスイス時計の比ではありません。この叡知の結晶を目の当たりにして人々は「それは自然にできたものだよ」と言います。そしてそれを "自然" と名付けることさえしています。この言葉には実際多くのものへの否定の概念が含まれています。それを見た過去の巨匠たちは、自らを神の領域に近づけるには何をすべきかを理解しました。「無我の境地」という概念です。もっと小さな範囲で考えるなら、100%の力を出し切ろうとするのではなく、自分を抑えて身を引くことによってむしろさらに高められる "止揚" という概念を理解しました。プラス10の効果を得る為に10努力する、人を押しのける(笑)等の方法論ではなく、マイナス1ないし2を選択するという非常に高度な考え方です。彼らは自分の中にある、それも自分にとって大事な何かからそれを引いてきました。自己愛、虚栄心、誇り・・・自然界から取ってきたガラスという物質が引いている4%、表裏で8%とは何でしょうか? ここに神が宿ると見なすようになったら、あなたはかなり経済的に危ないです。優れたオールドレンズは安くはないし、とても豊富です。俗人となって無知である方がより上手に人生を歩めるかもしれません。晩年になってようやく成功し「最も神に近い男」と言われたオットー・クレンペラー(Otto Klemperer 1885~1973)は、圧倒的な成功と豊かな才能との関係について問われた時に自分の言葉で答えようとせず、聖書を開いて伝道の書1:17,18を朗読して、そのまま黙ってしまったと言われています。真に美しいものは、痺れて息が詰まる程に激烈で刺激的です。苦しいが止められない類の魔力があります。ノンコートレンズが見せる画は一種独特の凄みが宿っています。(クレンペラーが参照していたのは私の記憶が正しければドイツ語ルター訳だったと思います。)

 推測の域を出ませんが、写真レンズの黎明期から関わってきたドレスデンの人々にとって、ノンコートレンズの呪縛から逃れるのは難しかったようです。彼らが開発した「Vコーティング」はまるでコートしていないような味付けながらフレアは抑えているという凄いものです。引くことによってしか得られない渋味を味わう最後の技術者集団だったのかもしれません。そのコートの色はブルー或いはパープルでした。

 これとはまた少し違った感性でパープルコートを採用した人々がいました。パリの技術者たちです。この色のコートを入れると赤が艶やかに発色します。彼らはアンバーやマゼンダを使うこともありました。その組み合わせによって、フランス人独特の感性を表現しました。

 ドイツのツァイス(Tコーティング)、英国、米国のレンズではよりコントラストを高めていく努力がなされました。その過程でコーティングの登場は渡りに船だったと思われ、現代でもツァイスのレンズは艶やかなコントラストを保っています。

 「無一居」では、コーティングのそれぞれの味わいを尊重しつつ、適切な選択をしようと思います。販売する一部のレンズはノンコートも作り、一方で検討して選択されたカラーのコーティングを施したものも作ります。f値は同じながら実際の明るさには差が出てきます。

 楽器用のガット弦にもコートがあります。2,3重までありますが、耐久性、耐候性が増して使いやすくなります。ノンコートもあり一定の支持を得ています。音色が違うのであらゆる不便を省みずにノンコートを選択する演奏者がいます。ショップに注文する時に何も言わなければコーティング入りのものが送られてきます。それぐらいコーティングは優れていて必要不可欠なものとなっていながらノンコートもあるという、写真レンズと似たようなところがあります。しかし写真レンズでノンコートの現行品は一般にはないので、より文化水準が高まれば、ノンコートも評価の対象になり得るかもしれません。

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